蜜月―帝人編―
寂しがり屋、二人
大雨が窓を叩きつける音で、帝人は目を覚ました。寝惚けまなこを擦っていると、追い討ちのように雷鳴が轟く。思わず肩をそびやかし、ようやく現状を把握した帝人は、大慌てで窓のサッシを確認した。案の定、雨水が漏れて室内に侵入している。幸い、まだ床にこぼれるほどではない。帝人は手近にあったティッシュを引き抜いて、隙間なくサッシに敷き詰めた。この古びたアパートは、立て付けが悪いせいか窓から雨水が漏れる。今のところ天井からの雨漏りはないが、高校を卒業するまでもたないかもしれないと、帝人は思っていた。
一息吐いて、帝人は携帯の時計を見た。起きる予定の時間より、一時間も早かった。今日の予定を思い出して、帝人は嘆息した。外は、梅雨明けも間近だというのに、置き土産と言わんばかりの豪雨だ。
――――――二人に連絡しようかな。まだ寝てるかな。
帝人は少し考えて、いつも通りにパソコンの電源を入れた。まだ外は雷が鳴っていたが、専用の電源タップを使っているので問題は無い。ブラウザを立ち上げ、真っ先に天気予報を確認する。些細な期待をこめて時間ごとの予報を見ると、東京周辺は真っ赤なドットで埋め尽くされていた。今日は一日この天気だ。
帝人は気持ちを切り替えて、ネット上のアルバイトをこなすことにした。生活費を稼ぐにはそれなりの作業量が必要だ。
すぐに作業に没頭した帝人だったが、不意に鳴り響いた携帯の着信音で、現実に引き戻された。気が付くと、起床してから一時間以上が経っていた。予想通りの名前を表示する画面を確認して、通話ボタンを押す。
『よっす! おはよう! 寝てたか? 今日無理っぽい? 外めっちゃヤバイんですけど』
「おはよ。無理っぽいねー。ていうか僕窓から雨漏りしてて出られないや」
『窓からって。どんだけボロいんだよお前のアパート! 俺なんてなー、起きたら窓開いてたんだぞ。こんなに降るなら教えといてくれよ!』
「それは自業自得じゃん」
『帝人、冷たい! ……床も冷たい。まじやベー。タオル敷いてみたけど、なんか変色してる……。これってもしかして弁償?』
「もしかしなくても弁償」
『おぅ……すげーショック。とりあえず杏里に連絡するか。杏里のおはようからおやすみまでは紀田正臣の提供でお送りします!』
「正臣って血圧高かったっけ? まぁ連絡してくれるならそれでいいけど」
『お前は低血圧かー? 塩食え、塩。ノリが悪いぞ!』
「これが正しい一般人の反応だよ」
『俺は何者なんだ。つーかまじ天気空気読めよなー。杏里の私服姿が遠のいたぜ』
「あー、はいはい」
『またまたぁ、興味ないふりしちゃって! このムッツリ!』
「私服とムッツリを結びつけるのは断固として認めないよ、僕は」
『あーあーつまんねぇ! 今日の予定を俺はどうすればいいんだ!』
「とりあえず大家さんに土下座しに行けば?」
『うっ……。弁償かなー……? マジ土下座したら何とか……』
「ならないね」
『お前が言ったんだろうが! じゃ、杏里に電話すっから切るぞー?』
「うん。園原さんによろしくね」
『まかしとけ! じゃなー!』
朝からいつも通りのテンションを発揮した正臣との通話を切って、帝人は再びパソコンの作業に戻る。
今日は本来なら、三人で出掛ける予定だった。話の流れで見たい映画の話になり、期末テスト明けの日曜日に見に行くことになったのだ。放課後に寄り道することはよくあったが、休日に三人で出かける約束は初めてだ。帝人ももちろん楽しみにしていたのだが、この天気ではどうしようもない。
しばらく作業を続けて、凝った背筋を伸ばしていると、再び携帯に着信が入った。携帯を取って確認すると、珍しいことに杏里からだった。帝人は不思議に思いながらも、わずかに緊張して通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし……あの、今日の約束、中止にするそうです』
「あ、うん。正臣から連絡あったんだよね?」
『え? ……はい。あの、』
「あー、なんとなく分かった。また正臣が適当にまくしたてたんでしょ」
『あ、……ごめんなさい。竜ヶ峰君がまだ知らないと思って……』
「あはは。謝らないでよ、正臣が悪いんだから。わざわざありがとね」
『いえ、そんな……。あの、今日、本当に残念です』
「そうだよね。でもこんな天気だし、仕方ないよ」
『そうですね……。窓がすごく揺れてて……』
「窓、気をつけたほうがいいよ。うち窓から雨漏りするから」
『窓から、ですか……あっ』
「えっ? 漏れてた?」
『こんなところから……気付かなかった』
「大丈夫?」
『あ、はい。少しなので。……それじゃあ、これで』
「あ、うん。じゃあね」
『はい、また』
待ち受け画面になった携帯を見つめて、帝人は苦笑を浮かべた。杏里の前では正臣に責任を押し付けるような言い方をしたが、杏里も稀に天然のような反応をする。あながちどちらが原因かは、分からないところだ。
窓際を見ると、もうすっかりティッシュが濡れそぼっていた。それを取り除いて、今度はタオルで塞いだ。これでしばらくはもつだろう。外の雷雨はいまだ収まる気配が無い。今日は休日だったからよかったものの、もし平日だったらと思うとたまらない。警報は各種出ているが、暴風警報まではいかず強風注意報だった。この天気の中登校しろといわれても、さすがに帝人もサボってしまうかもしれない。
帝人はふと思いついて、ダラーズのサイトを覗いてみた。指が覚えこんだパスワードを打ち込むと、見慣れたサイトのトップページが表示される。
休日で、出かけることも出来ず、暇を持て余した集団がそこにあった。
帝人はダラーズ内のいくつかのコミュニティを覗いてみたが、どこもものすごい勢いで書き込みが増えて行く。記事を読んで更新ボタンを押したら、また新しい記事が投稿されているといった具合だ。人気のあるコミュニティは、もはや掲示板ではなくチャットの域だ。見覚えのある名前もあちこちで見かけた。
しばらく掲示板の勢いに飲まれていると、突然パソコンから効果音が鳴った。デスクトップ下部のアイコンが明滅する。それは、ここしばらくはデスクトップの風景と化していたものだった。帝人が東京に出てきてから一度も光らなかった、かつて正臣と使っていたチャットのアイコン。ダラーズのサイトを見ていた帝人は、一瞬どきりとしたものの、すぐに気を取り直してアイコンをクリックした。
正臣【じゃじゃーん】
正臣【驚いた?】
正臣【チャット超久しぶりだよな、】
正臣【ちょっとつきあえよ】
正臣【遊ぶ予定だったんだから暇だろ?】
正臣【退屈だし大家さん超怖いし><】
立て続けに表示される文字を見て、帝人は苦笑した。
帝人【怒られたの?】
帝人がそれだけを打ち込むと、正臣は堰を切ったように事の顛末を語りだした。帝人は時折相槌を打ちながら、増える文面を目で追う。