いと高きところに、主よ
人を、斬りすぎた。
呆然と自分の手を見たら、他人の血で赤く染まっていた。
ぬぐおうとしても、洗い流そうとしても、どうしたら消えるのかわからなくて、途方に暮れてしまった。
難しくてどうにもならなくて、考えることを放棄した。そのかわり。
笑うことにした。
「アラミス! おまえ、昨日またワルモノを串刺しにしたって?」仲間の銃士に呼びかけられた青年は、軽く返した。
「なに。ただのコソ泥だよ」端正な顔に、上品な笑みを浮かべて。
それに見惚れそうになって、銃士はあさっての方向を向いてごまかそうとし、失敗した。
「いやあ、おまえ、きれいに笑うよなあ。もっととっつきにくいかと思ってたけど」
観念した銃士は並んで歩きながら、アラミスの美点を褒めそやす。
「市中警固の成果も一番挙げてるし、知ってるか? おまえの信望者、続々と増えてるぜ!」
「信望者、なんて」笑った顔のまま、「おおげさだなあ」
「いやいや。その笑顔! 値千金、てやつだな。かくいうおれもその一人さ。今晩飲まないか? たまにはあの二人とはなれてさあ」銃士はなおも食い下がる。
「いいけど、遅くまではつきあえないよ。やることがあるから」笑顔――笑顔。
「ほんとかい? 仲間も呼ばなくちゃ」
談笑しながら廊下の奥へ遠ざかるアラミスを、一人は腕組みをして壁に背を凭れさせながら、もう一人はその隣で床を調子よく蹴りながら、じっと見ていた。
「とられちゃったよ」どうする?と、詰所の庭の樫の木の下で、丸い男が楽しげに笑って傍らのヒゲ男を見上げた。
「バカ言ってんじゃねえ」こちらは仏頂面で、丸いのを横目で見下ろした。
「ごめんごめん。で、どうする?」
「…あいつの問題だ」
「じゃあ、ほっとく?」しばしの間返事を待っていたが。降ってきたのはいまいましげな舌打ちだった。
それを聞いて、ポルトスは可笑しそうに
「あーあ。甘いねえ、おっさんは」
「おっさん言うな。そういうおまえはどうなんだ」
へー。甘いのは認めるの、とひとしきり茶化すと、真顔になって目を伏せた。
「あんたと同意見だよ」
「おたがいさま、かよ。まったく手のかかる…!」
「立ち入っていいもんかとは、思ったけどね。あいつだってオトナだし?」
「おれだって考えたさ。…でも、ダメだ。おれが耐えられねえ。自己満足でもいい。好きにさせてもらう」アトスは、拳 で幹を強く叩いた。揺すられて葉が落ちる。
「自己満足か。そうだねえ。頼まれたわけでなし」
「なら、ほっとくか?」
珍しく逆襲を受けて、ポルトスの丸い頬がむーと、ふくらんだ。
窓を開けてしばらく夜風に身を晒すと、彼は毎夜の儀式を始めた。
盥に水を張り、桶で掬って体を流す。
「主よ」
水に濡れた両腕を、かざし見た。
「…あかい」
顔にはあの笑み。もう一度、尊き御名を呼ぶ。
その色を、誰もぬぐいさってはくれない。
「主よ、どうか」はじめて、顔が曇る。
「翼を」
「具体的に、どうしよう?」
「まずは、正攻法でいく」
たは~。と、げんなりした顔つきで、ポルトスは私見を述べた。
「おっさんの正攻法ってのは、ゲンコ一発なんじゃないの?」
「それですめば、一番だが…さすがに、そうは思っちゃいない!」
ひそひそ話す彼らの前を、話題の人物が通り過ぎていこうとした。
「おい!アラミス!!」アトスが気づいて声をかけると、青年は振り返った。
「やあ」笑顔。
「今、ひまか?」
「うん」
「ちょうどいい。久しぶりに手合わせしねえか」
ちょっと考えてから、アラミスは承諾した。「いいよ。うん、久しぶりだね」
ポルトスの合図で、ふたりは試合った。
互いの隙をうかがい、出方を見あっていたが、先にアラミスが動いた。電光石火の剣さばきは、アラミスの得意だ。
すばやく、確実に相手の急所を突いてくる。対するアトスは剣筋を慎重に見極め、前へ前へと相手を追いつめる。
「脇が甘いぞ!」「きみこそ、右に寄りすぎだ!」銃士隊屈指の使い手である二人のやりあいに、周りは見物の人垣でいっぱいになっていた。
キンッと両者が剣を払い合ったそのとき、「はい、そこまで」おさめるポルトスの声が響いた。
「さすがだなあ!」「いい勉強になる」「今度おれにも稽古つけてくれよ、二人とも!」銃士たちの歓声が二人を取り囲む。
「メルシー。アラミス」さほど上がってはいない息を整えながら、アトスがアラミスに礼をいう。
「こちらこそ。じゃあ、また」変わらない、笑顔。
「じゃあね~。おれもこんどね~」「そのうちに!」アラミスが去っていったのを確かめ、周囲の喧騒がやんだ頃。
「…みてたな」
「うん。原因は、やっぱこれか」
「あいつ、こんなことでつまづいてたのか…とうにわかってなきゃいけねえのに」
「さて、どう出ます?」正攻法は、むずかしそうだよと、暗にほのめかす。
「逃げ場は前にしかない、てのが、おれの信条だ」
追い詰められてるのは、どうやらおれたちのほうらしいからな、と、鬱々と口の端にのせた。
「ときには後退も戦術だよ」
「言われなくても!」
「あたっても砕けちゃわないでよ?」心配そうに見上げてくる友人に、アトスは破顔一笑。
「それも一興、だ!」
「なに、やってるんだ」
低い声に、アラミスは振り返った。
「なんだ、きみか」
「そんなことしても、とれねえぞ」
「うん、そうなんだ」
「…おれの後ろに、誰かいるのか?」
「いや、そうじゃない。きみに、翼が見えたから」
「つばさぁ?」
「ああ…白い、きれいなのが」
「おまえには?」
「ないんだ」
「ほしいのか?」
「…くれるのかい?」
目を輝かせた年下の友人は、いつもの笑みではなく、見知った顔だった。
「やりたいが、…あいにく、はずしかたをしらん」だから、とアトスは続けた。
「おまえがもぎとれ」
「…きみごと、ひきちぎってはいけないかな」
「…痛そうだな、それは」
「だって、わたしには合わないかもしれない。肉もいっしょじゃないと」
「どうすれば確かめられる?」
「…交わってみれば、わかるかも」
「じゃあ…やってみるか?」
「きっときみは、途中で嫌だって言うよ」
「言わない。おまえが嫌だというまで、絶対」
瞳に強い光をたたえて、アトスはアラミスを見据えた。
その光に突き動かされるように、アラミスは、目を細めて、言った。
「うん。きみは嘘を言わないから。信じるよ」
アトスはその顔をずっと見ていたかった。
控えの間では、銃士たちがいつものように、艶事や賭けの勝敗などに話を咲かせていた。
ひと際大きなその輪の中にいたポルトスが、じゃ、と皆に手を振って抜け出し、だるそうにソファーに身を預けているア トスに近寄った。
「具合、悪そうだね」ぼそぼそと、周りに配慮した小声で尋ねた――というよりは、確かめた。
「…どうってことない」ぶっきらぼうに応えたその声には、張りがない。
「まだ続けるの?」
「約束したからな」
「律儀だねえ…でも、悪いけど」有無を言わせぬ口調で、突きつけた。
「破ってもらうよ、それ」
「っだめだ!…うぐっ…くぅ…」驚いて立ち上がろうとして、体中を走る鈍痛に、裏切られた。
「こっちのセリフだ! おれはともだちいっぺんになくしたくないの!」
呆然と自分の手を見たら、他人の血で赤く染まっていた。
ぬぐおうとしても、洗い流そうとしても、どうしたら消えるのかわからなくて、途方に暮れてしまった。
難しくてどうにもならなくて、考えることを放棄した。そのかわり。
笑うことにした。
「アラミス! おまえ、昨日またワルモノを串刺しにしたって?」仲間の銃士に呼びかけられた青年は、軽く返した。
「なに。ただのコソ泥だよ」端正な顔に、上品な笑みを浮かべて。
それに見惚れそうになって、銃士はあさっての方向を向いてごまかそうとし、失敗した。
「いやあ、おまえ、きれいに笑うよなあ。もっととっつきにくいかと思ってたけど」
観念した銃士は並んで歩きながら、アラミスの美点を褒めそやす。
「市中警固の成果も一番挙げてるし、知ってるか? おまえの信望者、続々と増えてるぜ!」
「信望者、なんて」笑った顔のまま、「おおげさだなあ」
「いやいや。その笑顔! 値千金、てやつだな。かくいうおれもその一人さ。今晩飲まないか? たまにはあの二人とはなれてさあ」銃士はなおも食い下がる。
「いいけど、遅くまではつきあえないよ。やることがあるから」笑顔――笑顔。
「ほんとかい? 仲間も呼ばなくちゃ」
談笑しながら廊下の奥へ遠ざかるアラミスを、一人は腕組みをして壁に背を凭れさせながら、もう一人はその隣で床を調子よく蹴りながら、じっと見ていた。
「とられちゃったよ」どうする?と、詰所の庭の樫の木の下で、丸い男が楽しげに笑って傍らのヒゲ男を見上げた。
「バカ言ってんじゃねえ」こちらは仏頂面で、丸いのを横目で見下ろした。
「ごめんごめん。で、どうする?」
「…あいつの問題だ」
「じゃあ、ほっとく?」しばしの間返事を待っていたが。降ってきたのはいまいましげな舌打ちだった。
それを聞いて、ポルトスは可笑しそうに
「あーあ。甘いねえ、おっさんは」
「おっさん言うな。そういうおまえはどうなんだ」
へー。甘いのは認めるの、とひとしきり茶化すと、真顔になって目を伏せた。
「あんたと同意見だよ」
「おたがいさま、かよ。まったく手のかかる…!」
「立ち入っていいもんかとは、思ったけどね。あいつだってオトナだし?」
「おれだって考えたさ。…でも、ダメだ。おれが耐えられねえ。自己満足でもいい。好きにさせてもらう」アトスは、拳 で幹を強く叩いた。揺すられて葉が落ちる。
「自己満足か。そうだねえ。頼まれたわけでなし」
「なら、ほっとくか?」
珍しく逆襲を受けて、ポルトスの丸い頬がむーと、ふくらんだ。
窓を開けてしばらく夜風に身を晒すと、彼は毎夜の儀式を始めた。
盥に水を張り、桶で掬って体を流す。
「主よ」
水に濡れた両腕を、かざし見た。
「…あかい」
顔にはあの笑み。もう一度、尊き御名を呼ぶ。
その色を、誰もぬぐいさってはくれない。
「主よ、どうか」はじめて、顔が曇る。
「翼を」
「具体的に、どうしよう?」
「まずは、正攻法でいく」
たは~。と、げんなりした顔つきで、ポルトスは私見を述べた。
「おっさんの正攻法ってのは、ゲンコ一発なんじゃないの?」
「それですめば、一番だが…さすがに、そうは思っちゃいない!」
ひそひそ話す彼らの前を、話題の人物が通り過ぎていこうとした。
「おい!アラミス!!」アトスが気づいて声をかけると、青年は振り返った。
「やあ」笑顔。
「今、ひまか?」
「うん」
「ちょうどいい。久しぶりに手合わせしねえか」
ちょっと考えてから、アラミスは承諾した。「いいよ。うん、久しぶりだね」
ポルトスの合図で、ふたりは試合った。
互いの隙をうかがい、出方を見あっていたが、先にアラミスが動いた。電光石火の剣さばきは、アラミスの得意だ。
すばやく、確実に相手の急所を突いてくる。対するアトスは剣筋を慎重に見極め、前へ前へと相手を追いつめる。
「脇が甘いぞ!」「きみこそ、右に寄りすぎだ!」銃士隊屈指の使い手である二人のやりあいに、周りは見物の人垣でいっぱいになっていた。
キンッと両者が剣を払い合ったそのとき、「はい、そこまで」おさめるポルトスの声が響いた。
「さすがだなあ!」「いい勉強になる」「今度おれにも稽古つけてくれよ、二人とも!」銃士たちの歓声が二人を取り囲む。
「メルシー。アラミス」さほど上がってはいない息を整えながら、アトスがアラミスに礼をいう。
「こちらこそ。じゃあ、また」変わらない、笑顔。
「じゃあね~。おれもこんどね~」「そのうちに!」アラミスが去っていったのを確かめ、周囲の喧騒がやんだ頃。
「…みてたな」
「うん。原因は、やっぱこれか」
「あいつ、こんなことでつまづいてたのか…とうにわかってなきゃいけねえのに」
「さて、どう出ます?」正攻法は、むずかしそうだよと、暗にほのめかす。
「逃げ場は前にしかない、てのが、おれの信条だ」
追い詰められてるのは、どうやらおれたちのほうらしいからな、と、鬱々と口の端にのせた。
「ときには後退も戦術だよ」
「言われなくても!」
「あたっても砕けちゃわないでよ?」心配そうに見上げてくる友人に、アトスは破顔一笑。
「それも一興、だ!」
「なに、やってるんだ」
低い声に、アラミスは振り返った。
「なんだ、きみか」
「そんなことしても、とれねえぞ」
「うん、そうなんだ」
「…おれの後ろに、誰かいるのか?」
「いや、そうじゃない。きみに、翼が見えたから」
「つばさぁ?」
「ああ…白い、きれいなのが」
「おまえには?」
「ないんだ」
「ほしいのか?」
「…くれるのかい?」
目を輝かせた年下の友人は、いつもの笑みではなく、見知った顔だった。
「やりたいが、…あいにく、はずしかたをしらん」だから、とアトスは続けた。
「おまえがもぎとれ」
「…きみごと、ひきちぎってはいけないかな」
「…痛そうだな、それは」
「だって、わたしには合わないかもしれない。肉もいっしょじゃないと」
「どうすれば確かめられる?」
「…交わってみれば、わかるかも」
「じゃあ…やってみるか?」
「きっときみは、途中で嫌だって言うよ」
「言わない。おまえが嫌だというまで、絶対」
瞳に強い光をたたえて、アトスはアラミスを見据えた。
その光に突き動かされるように、アラミスは、目を細めて、言った。
「うん。きみは嘘を言わないから。信じるよ」
アトスはその顔をずっと見ていたかった。
控えの間では、銃士たちがいつものように、艶事や賭けの勝敗などに話を咲かせていた。
ひと際大きなその輪の中にいたポルトスが、じゃ、と皆に手を振って抜け出し、だるそうにソファーに身を預けているア トスに近寄った。
「具合、悪そうだね」ぼそぼそと、周りに配慮した小声で尋ねた――というよりは、確かめた。
「…どうってことない」ぶっきらぼうに応えたその声には、張りがない。
「まだ続けるの?」
「約束したからな」
「律儀だねえ…でも、悪いけど」有無を言わせぬ口調で、突きつけた。
「破ってもらうよ、それ」
「っだめだ!…うぐっ…くぅ…」驚いて立ち上がろうとして、体中を走る鈍痛に、裏切られた。
「こっちのセリフだ! おれはともだちいっぺんになくしたくないの!」
作品名:いと高きところに、主よ 作家名:卯乃花ことは