いと高きところに、主よ
「…おれの翼を、あいつが…手に入れるまで」肩で息をしながら、アトスは一週間前の夜を思い出す。
「たのむ」
「この…頑固者! 甘やかしていいときと悪いときがあるくらい、わかるだろ?
きみの限界がくる前に、おれの限界を発動させる。もう決めた」
「…おいおい、こわいなあ…」
「ゲンコツはきみの専売特許じゃないんだからね。実力行使に出ます」
「身長がたりないんじゃないか?」
「方法はいくらでもある」胸をそらしていばるので、丸い身体がもっと丸みを増したように見えた。
「でもよ、正攻法じゃ無駄だって、言ったじゃねえか」
「アトス、おれの得意は搦め手だって、忘れてない?」
「あー…そっちのほうがこわいわ」
とにかく! と、ポルトスは意志を曲げない姿勢で、
「おれは今夜、夜勤だから遅くなるけど、あいつんち行くから。きみも待ってるように」
「あいつがおまえさんにボコられるとこ、見ろってかあ~?」
「別に殴るとは言ってない。言ってないけど…」
「けど?」
「やっぱりやっちゃうかも」ぺろっと舌を出しておどけて見せた。
「これ以上、不安なままでいるのはさ、おれもやなんだよ」
「…わかった。待ってる。穏便にすませたかったんだがなあ」
「なに言ってる! もうとっくに穏便じゃないでしょ」
アトスは、だらしなくソファーに横になって、なかば喘ぐように、つぶやいた。
「酒…飲みてえなあ」
ポルトスには、後に続く言葉がわかりきっていたので、ひとりごとの邪魔はしないでおいた。
「三人で」
アラミスはアトスの体をただ無感動にうがつ。もともと性欲の薄いたちなのかそれは長い時間ではないが、乱暴な、愛撫 など存在しない行為だった。アラミスにはアトスの苦しげな荒い息も聞こえていず、上気してほんのり朱に染まった肌も目に入らない。終始無言で、自分をのみ、いとおしむ勝手な性交。しかし、本来受け入れるようにはできていないそこを 傷つけて流れる血を見ると、きまって、笑うのだ。アトスとポルトスが嫌悪した笑みを、貼りつかせる。
今夜もそんな情事とも言えない交合を終えて、アトスはぐったりと寝台に身をうずめながら、頭上のアラミスの笑顔を見ていた。
「…たのしいか?」
一度もそんなことを訊かれたことはなかったので、アラミスは笑顔のままキョトンとするというしごく難しい表情で、ア トスを見下ろした。
「たのしい…のかな? 少なくとも、わたしは笑ってるじゃないか?」
「バカ言うな。おまえ、ヤってる間、ずっと無表情で、怖いぞ」アトスは、可笑しくなってくくっと喉で笑った。
「…? 気づかなかった」
「たちわりぃなあ」同じように笑ったつもりが、からまって咳が出ただけだった。
ひどく瞼が重い。さすがに連日は…疲れたかな…。そうだ、ばらしちまえ。こいつも心構えしといたほうがいいだろ。
「ポルトスがな、今夜、様子を見に来るってよ」
「ポルトスが? なんの?」問いには答えずに、
「おまえ…いつ、おれの翼をもぐんだ?」
「翼?」
「言ってたろう…おれの翼がほしい、って。もう、機会がないかもしれねえぞ」ポルトスはおっかねえから。
「…ほら…もってけ…」笑ってると、怒られるから。はやく。
「でも、どうすれば」
「簡単だ。剣で…剣がいやなら、その手で、首を」なんだ、こんな簡単だったか。もっとはやいうちに教えてやれりゃ
よかった。ごめんな。
「…こう?」笑顔のまま、アラミスはアトスの首に手をかける。
その笑いかたは、いやだ。
おまえの顔が見えなくなる前に――、
せめて、ひとこと。わがままを。
アトスは、自分の首を絞めてくる男の頬に両の手をのばした。ひどくゆるやかな動作だった。
同時に、かすかな呼吸の間から、声を絞り出す。
「そんな、顔をして…笑うな」
あと数センチでアラミスの肌に指先が届く。
「おまえが…苦しいと…」
アラミスは呆けた笑顔でアトスを見ている。
「おれも、いた、い」
アトスの双眸から涙が一筋、流れ、その眼はゆっくり閉じられた。
同じくゆっくりと、触れることのなかった腕がぱたりとシーツに沈んだ。
「アトス?」いらえはない。身体はぴくりとも動かぬまま。
「…アトス」
ああそうか。わたしがまだ手をゆるめていないから。そう考えるにいたってアラミスはアトスの首から手を離した。
「アトス、目を」動かない。
「…アトス!」アラミスは目を見開き、寝台の上でガタガタと震えだした。
「アトス! アトス!?」狂ったように、口走る。わたしが。アトスを。殺…?
アトスの肩をつかんでゆさぶりながら、その言葉しか知らないようにアトスの名をただ叫ぶ。
キィ、とドアが開いたのにも気づかなかった。
「邪魔するよ~」そっと入ってきたポルトスが目にしたものは、半狂乱になってアトスを呼ぶアラミスの姿だった。
「っおい! アラミス? なにやってんだ」
慌ててかけよったポルトスは、アトスからアラミスをひきはがした。そこで初めてアラミスは、ポルトスに気がついた。
彫りの深い顔を涙でぐしゃぐしゃにして、子供のように泣きじゃくってアラミスはポルトスにすがった。
「ポル…ポルトス、アトスが、わたしが、アトスを」
「お、落ちついて、な?」勢いに呑まれぬようアラミスをなだめ、急いでアトスの容体を診た。胸に耳を当て、鼓動を確 かめる。
ほう、と安堵のため息をついて、ポルトスはアラミスに向き直った。
「大丈夫。生きてるよ」
その言葉をきいて、アラミスはまたも顔を歪ませて泣いた。
「呼吸が弱いな。おっと、ゆさぶるなよ。これ以上無理させたらほんとにぽっくり逝っちまう」
何か拭くものないかと問われ、アラミスはあたりを見回し、手近にあったハンカチをポルトスに渡した。
「汗で冷えるとよくないんだ。なんか掛けてやれよ…ああ、それでいい。えらく熱が高いじゃないか。どんな扱い方したの!」
的確に処置を施していくポルトスに安心したのか、アラミスはやっと泣きやんだ。
「…アトス…よかった…」
「やったのはおまえさんだろ」
ポルトスの声は常にない冷たさを含んでいた。
「見限られたいのか、おれたちに」
最後通牒のような宣告は、アラミスの胸を鋭くえぐった。
いつも、頭の隅にあった。友人たちは、己を見捨てるようなことはしないだろう。どれだけ人を斬っても。どんなに罪を 重ねても。傲慢にもそう思っていた。
そしてそれを実感することで…自分は幸福だった。
「わたしは」アラミスは二の句が継げないでいる。
「わかってるな? おまえさんを失うことが、おれたち、どんなに怖いか」
ポルトスの声はいっそう、冷ややかだ。
「おまえはそれを知ってるくせに。いつまで弄ぶつもり?」
わたしの、罪は。
「国王陛下のため、フランスのため、おれたちいつでも剣をふるってきたさ。アトスだって何度も言ったはずだ。命を奪うことの重さを忘れてるわけじゃない。祈ることも忘れない。でも、のりこえなきゃ銃士じゃない」
ポルトスはいったん言葉を切って、大きく息を吐いた。
「おまえ、さっき、アトスになにをしたかわかってるか? 人を斬るのにぶるってるその手で、ともだちを殺しかけたん だぞ」
そうだ。わたしは、この手で。血塗られたこの手で。
ポルトスの水色の目が、哀しい色に染まる。
作品名:いと高きところに、主よ 作家名:卯乃花ことは