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彗クロ 1

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 肺を潰すかという激痛だった。目がかすみ、口の中で血の味がした。一瞬の諦めと気の緩みが命取りになりかねない、ひどい現実だった。レプリカを人とも思わないオリジナルなどいくらでもいた。普段優しげに接していても、いざ追いつめられれば優先順位の線引きをいともたやすく引いてしまう大人ばかりだった。こんなクソな世界、と思う。それでも恨むのだけは嫌だった。だからレグルは「怒る」のだ。現実を諦めない決意表明として、正しく怒りをあらわすのだ。
(恨んで憎んで否定して、そうやってやっと立ってられるような卑怯者のカス野郎に、おれは絶対にならない)
 絶え間なく叩き込まれる激痛を拒絶して、いつしかレグルの痛覚は鈍く麻痺していた。人間、上手くできている。意志に反して意識が飽和していく。だからといって肉体に蓄積されたダメージが解消されたわけでもなく、ようやく攻撃の手が止められた頃には指一本動かすこともできなかった。
 頭部に走った新たな痛みが、闇に落ち込みかけたレグルの意識を引き戻した。バンダナごと髪を掴まれ、強引に引き起こされる。もはや焦点を合わすのも危うい視界の中央で、男がどす黒い笑みを浮かべていた。運がいいとか高く売れるとか、耳障りな嘯きは遠かった。耳鳴りが聴覚ごと意識を連れ去ろうとしていた。頭の中で無理矢理焚いた怒りの炎を、甘く溶かす声が聞こえる。もういい。無理しなくていい。我慢しなくていい。

(泣いていいよ)

 レグルはかっと目を見開いた。鮮やかな緑の双眼に、針の先でつついたような炎が灯る。
 それは、本物の怒りだ。
「――だ、っれが……くかよ……っ」
 拳を固める。光を宿す。
 ――いっさい壊すと決めたのだ。この世のあまねく不条理も。
 すべての悲しみも。
(おれが悲しみを止めなければ本当に癒されなければならないお前自身に報いることもできないじゃないか、ルーク)
「魔……神、拳ッ!」
 輝きまとう渾身の拳は、男の顎に見事に決まった。あっけなく背後へのけぞった男の姿に会心の笑みがこぼれかけ、しかし頭皮を引き千切られるような再びの激痛に無様に歪んだ。髪を掴まれたまま乱暴に引き上げられ、宙ぶらりんに吊るし上げられる。激昂した男の罵声が心臓に直接注ぐようだった。
 ……至近距離で、渾身の一撃のはずだった。なのに、浅かった。大の男ひとり、弱りきったレグルにはどうすることもできないのだ。悔しかった。屈辱で死んでしまいたかった。だが今のレグルにはもう、指先どころか舌を動かす力さえ残ってはいなかった。喉元に突きつけられたナイフの感触さえ感じない。何度目なのか、意識が暗い深淵へと引きずり込まれるこの感覚。じわじわと胸を覆う、怒りではない、恐怖とも違う、黒々としたこの感情の名前をレグルは知らない、いや、知っていても認めるわけにはいかなかった。そんなものに、レグルは決して屈してはいけないのだ。万とひとりの同胞に誓って。
「ちくしょ……」
 心臓よりこみ上げたものが涙腺から嘔吐されようかというその瞬間、ドン、と重低音が男の屈強な体躯を揺らした。短い落下の感覚とともに視界がすとんと落っこちた。気がつけば、レグルは地面に横たわっていた。
(……なんだ?)
 男が手を離したのだと、とっさにそう納得するには違和感があった。頭部の痛みは多少やわらいだものの、引きつるような感触はまだ残っている。
 レグルの髪はまだ、男の手に掴まれたままだ。
 頭上で醜い絶叫が轟き渡った。どうにか眼球を動かして見上げた視界で、男の形をした影が肩を押さえて激しく身悶えていた。びしゃり。どこかからの水滴がレグルの頬を打った。勢いづいて跳ねた飛沫のほんの小さな一滴が、レグルの視界を一瞬鮮やかな赤に染め上げた。
「血……?」
 事態の急変に、レグルは痛みも忘れて肘で上体をよじ起こした。と、頭頂部にまとわりついていた異物感がようやくはずれたのがわかった。鈍い音のした方を見下ろせば、街道の乾いた土の上に、ありえない物体が転がっていた。
 転々と血痕のついた白いバンダナの下から、筒状の物体が血を流して生えている。
「あれえ、ちょっと出力高すぎたかなー?」
 のんびりと、よく通る声が男の絶叫をかいくぐって耳に届いた。レグルが視線を転じたその時にはもう、声の主は男の背後に張りついていた。
 ジャキリ。獣が爪を打ち鳴らすような音が、男の後頭部に突きつけられた。
 大人の片手にしっくりと馴染む筒型の音機関の名を、レグルは知らなかった。
「まあ、仕方ない。未来ある子供の命と引き換えなら安い代償だったと思って、嫌でも割り切ってくださいね?」
 男の絶叫はやんでいた。狂気を忘れて恐怖に硬直する凶相の背後に、人のよさそうな青年の顔を確かに目撃したところで、レグルの意気地もとうとうこと切れたのだった。



作品名:彗クロ 1 作家名:朝脱走犯