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摂氏0度

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帰り道の夕暮れ
もうすぐ夕暮れも終わるから影は半分程黒い闇夜に呑み込まれていく。

カチャリとドアを開けるとセキュリティの解除される電子音が響く。

そのまま乱暴に靴を脱ぎ捨て、ペタペタと疲れて重い足をリビングまで引きずる。

もう靴を脱ぎ捨てても優しく叱ってくれる人も
優しく宥めてくれる人も、そしてついには口癖のように怒鳴り散らしては息子の名前を口に出しては嘆いていたあの絵羽叔母さんまでいなくなった。

ある意味これは反抗なんだろう。
それとも希望的観測??

絵羽叔母さんへの精一杯の反抗と
いつか誰かが昔みたいに優しく咎めてくれるんじゃないかという希望的観測。

(馬鹿みたい……)

自身に溜息を吐いて、未だ鳴れない左開きのリビングの扉へと手を掛けた。

「あ、お帰りなさい、お嬢」

何事も無かったかのようにその声がリビングに響く。

「アンタ…なんで此処に居るの?」

セキュリティを解除して入ってきた自分の行動を確認するように手に握った鍵を見た。

そう、確かに自分は鍵を開けて入ったのだ。
セキュリティが解除される音もしっかりと聞いた。

「やだな、お嬢。そんなの不法侵入に決まってるでしょ」

ただ問題は、この男ー天草十三に
"鍵"とか"セキュリティ"とかそういった類のものは通用しないという事。



どこかの特殊部隊に居たとか何とかで…とにかく天草十三っていう名前もふざけてれば経歴もふざけてる。
名は体を表すと言うけど、ある意味この男には天草十三という名前はぴったりなんだろう。

胡散臭さが名前からも存在からも滲み出ているから。

(大体特殊部隊に居た頃小比木さんに気に入られたって…幾つの頃の話よ)

ふう、と溜息を吐くと、いつものように

「せっかくのキュートな顔が台無しですぜ?」
とか砂糖を丸呑みしたような今時ホストでも言わなそうな答えが返ってくる。

「ところで何の用よ。用もなく来ないでしょ?」
「いえいえ、お嬢の為なら火の中、水の中…」

「どうせうまい事言って自分はしっかり逃げる癖に」
「あ、バレました?」

冷ややかな視線を向けると天草はまったく悪ぶる事なくニヤニヤと笑う。

ほんと腹が立つ

「で?何の用なの?」
「あ、実はですね・・・ちょいと小ネタを掴みまして…」

その言葉に縁寿は、ふうっと溜息を吐いて持っていた鞄から白い封筒を取り出した。

「で?いくらで買い取ればいいの?その情報」

封筒の厚さは数センチ。
その中身は一枚1ミリにも満たないものだから
厚みだけで価値が分かるというものだ。

まるでメモ帳でも差し出すかのようにして差し出されたその封筒に天草は首を横に振った。

「何よ、いつも言ってるでしょ?アンタが持ってきた情報が有益ならそれ相応の代償は払うって」

「いや、それは有難いんですけど…まだ中身も言ってないんですぜ?」

「それはそうだけど、アンタの持ってくる情報は信用してるから」

ふいっと視線を横に反らす縁寿。

「信用されてるのは有難いんですがね、こうも簡単に札束出されると色々心配になってくるっていうか…」

無論、彼女のこの状態は今に始まった事ではない。右代宮の財産のすべてを相続した彼女にとって、この札束はビルの屋上からばら撒いても惜しくないものだろう。

勿論、金がすべてじゃない。などと綺麗事を諭す気もなかった。
所詮金で動く世界。人の命だって金が握っている。
人の命を奪うことの出来るモノは、金で買えるのだから。

「じゃあ、お嬢、こうしましょうぜ?」
「何よ・・・またロクでもない事思いついたんでしょ」

まあ、そんな事だと笑いながら天草は縁寿にある提案をする。

「俺がこれからちょっとした自慢話をします。
んでお嬢がオレに惚れたなら俺の勝ちって事でこれは褒章代わりにしときます。なんなら結婚資金でもいいですけど?」

そう言いながらもいつものように笑う天草は到底 ”結婚資金”の意味を理解していないような笑い方だった。
勿論、そんな資金頼まれても積み立てて欲しくはないので、物の例えと云えども思わず天草を少しだけ訝しげに見た。

「つまり…アンタの話に私が何らかの感動をしたのならアンタはこのお金を素直に受けとって、情報を話してくれる―という事?」

「ええ、簡単なゲームでしょ?」

ゲーム、という言葉に少しだけ笑みを浮かべた。
小さい頃母さんがチェスをしているのを横で見ているのが好きだったから。

「いいわ、そのゲーム始めましょ?」

天草の前の席に縁寿が座る。まるで見えないチェス版を中心に向かい合うように。


「あれは…いつだったかな…ちょうどクリスマスでしたかね」

天草が語りだす。

「ちょうど仕事の都合で南極に行く事になりまして」

(どうやったら仕事の都合で南極に行くことになるのよ・・・基地の爆破でもしてきたの?)

我ながら安易な想像だが、想像の域を出てしまいそうな人物が語っているのだから性質が悪い。

「まあ南極なんで、四方八方氷なんですよね。目印なんて無くて。で案の定…」
「迷ったのね…」

あまりにも正攻法すぎるオチに思わず頭痛がする。

「ええ。まあ。そしたら丁度立っていた氷が割れ始めて、そこに持ってきた荷物が落下しちゃったんですよ」
「それは随分と災難だったわね」

「ええ、そりゃあ南極ですからね。一歩間違ったら俺が氷山になっちゃいますから。

でポケットの中を探ってたら、丁度小さな虫眼鏡と黒い紙があったんですよ。
基地から出る時に机にあったものを適当に入れたんで。

なんで虫眼鏡をレンズ代わりにして太陽の光を黒い紙に集めて暖を取って仲間の救援を待ったって事なんです」

「で、アンタはこうやって無事で、その奇跡の生還に感動してアンタに素敵~って言えばいいワケ?」

「そうそう、南極で遭難して生還できる人間なんて100万分の1くらいですぜ。お嬢」

天草の言っている生還人数が正しいのかは分からない。そもそも南極で遭難する人間が100万人に1人も居るのだろうか。

「一つ…確認してもいい?」
「どうぞ?」


「クリスマス・・・って言ったけど、日本から南極に行ったの?」
「ええ、日本ですぜ。ちょうど表参道のイルミネーション見ながらでしたので」

その言葉に縁寿はニヤリと笑った。





―駄目ね、

母が得意だったチェス。
そう呟かれると始まる華麗な舞踏会

自らのクイーンを敵陣に切り込ませて相手の駒を華麗に薙ぎ倒し、ついにはキングの喉元に銀刃を突き立てるような戦い方。


「駄目ね、ええ、全然駄目だわ」

縁寿の言葉に、天草は「へぇ~」と笑う。

「アンタの話は嘘だもの。
悪いけど嘘に惚れる程馬鹿じゃない。見くびらないで」

その言葉に天草はニヤリと笑う。続きを促がしているのだ。

「アンタが南極に行ったのはクリスマス。
クリスマスに遭難して太陽の光で黒い紙を燃やして火を起こして暖を取った…

だってそんな事出来る筈がないもの

アンタが生きてるのが証拠だと云うのならアンタが遭難した話が嘘よ」

「へえ、それはそれは。何で出来ないと思うんです?理科か何かの実験で習いませんでした?」
作品名:摂氏0度 作家名:伊月