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喪明曲

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02星の淘汰



静かな新月の夜に見上げると、たくさんの星が見えた。
地上から見える小さな星たちは、とても数えきれないような量だ。
篠原君に声を掛けられるまで、ずっと星を数えていた。
半分も数え終わらないまま、僕は星から目を逸らす。
数えられなかった忘れ去られた星たちは、どんな思いで僕を見下ろしているのだろうか。

役人との接待も終わり、彼らを見送った後はすぐに移動しなければならない。
最近は忙しくて屯所に顔を出せていない。
おかげで真選組局長宛ての書類が溜まっていく一方だ。
明日の予定は夕方からで、このあとの予定も特になかった。
役人が上機嫌で飲み続けたせいで夜も更けているが、一度屯所に寄ることにした。
書類を渡して簡単に報告するだけでいい。この時間なら隊士の数も少ないだろう。
そう思いながら、移動の車の中で静かに瞼を下ろした。近頃は睡眠もうまく取れていない。
自然と眉間に皺が寄った。目の奥のほうから額の辺りに鈍い痛みがある。
もう慢性的になっている頭痛など、気にしている暇もなかった。




「すいません、局長は今ちょっと…」

頭痛が増した。
屯所に戻り、近藤さんの部屋を覗いても誰の姿も見当たらなかった。
当てもなく屯所の中を歩き回っていると山崎君を見つけたので、局長の居場所を尋ねる。
すると彼は突然、目を泳がせてあからさまに動揺しだした。
彼の役職を考えると、思わずこんなに素直でいいのだろうかと考えてしまう。
だが今そんなことはとりあえずどうでもいい、局長不在の事実のほうが困った問題だ。
しかもこの様子からして見ると、局長が夜中に出かけている理由は真っ当なものではないだろう。
さらりと「近藤局長は今、深夜の見回り中です」とでも言ってしまえばいいものを。
おそらく真選組の局長は今、仕事を放り出して遊びに行っているのだろうと思った。
酒を飲む度に聞かされる例の「お妙さん」のところに行ったのだろう。
さすがに局長が女を追いかけているなど、大きな声で言えたものではない。
だったらもっと上手に隠してほしいものだ。新参者の自分に知られたくないことならば尚更に。

どうしてここにいる人間は揃いも揃ってこんな奴らばかりなのだろう。
良くいえば素直、悪く言えば単純すぎる。社会を渡っていくには狡賢さも必要になってくる。
そういう社会の現実を知っているのか知らないのか、全くもって純粋な輩が揃っていた。
居心地が悪いわけだ。僕はもう世界の汚さを知っているし、自分もその一部だと思っている。
真選組という綺麗な白い世界に、僕だけが汚れた黒い滲みを落としている気がした。
だからきっと一生、ここに馴染むようなことはないと確信をもっている。

小さくため息をついてみても、頭痛が和らぐことも現状が良い方向に進むこともない。
そんな様子に気付いたのか、山崎君はまるで僕を慰めるように一際元気な声を出した。

「でも、土方さんなら居る筈です!」

まるで語尾には「だから大丈夫です」などと加えられているような明るい声色だった。
だがそれは僕にとってはとてつもなく大丈夫な事実ではなかった。
煙草をふかしている彼の苦い顔を思い出すと、じくじくと頭の痛みが全身に広がっていく。
頭痛よりも性質の悪い痛みだった。だがそのことは顔には出さないよう、無表情を取り繕う。

しかし土方の居場所を聞くと、その努力は空しく消え去ってしまった。
呆けた僕を見て、山崎君は少しだけ苦い顔で、でも少しだけ誇らしげに笑っていた。





「少し時間を貰えるかな」

声をかけると土方はぴたりと腕を止めてこちらを振り返る。
少々息が上がっているようだが、顔には疲れの表情は見つからなかった。
その代わり、眉間に寄った皺がとてもわかりやすく嫌そうな顔を表していた。
書類を片手に道場に現れた僕を彼が歓迎するとは思っていなかったので予想通りだったが。
あまりに想像していた通りだったから、口元に薄く笑みを浮かべてしまう。
このことがさらに彼の機嫌を損ねるということも承知の内だった。

土方は道場にいた。山崎君が言うには彼は暇があればここに来ているらしい。
隊服は着ておらず、ただ竹刀を握るためにここに来ているように見えた。事実、そうなのだろう。
それは誰かに頼まれたとか指示されたからではなく、自分の意志でここにいる。
だが何となくわかっていた。
自分の腕を磨きあげること、それは長い目線で見れば真選組のためということになる。
彼が刀を取り「護る」と決めたもののために、鍛錬を続けているのだろうと思った。
真っ直ぐなその精神はまるで彼の手にある刀のように、鋭い光で輝くのだろう。
そんな光など、持っていない人間にしてみればただ眩しいだけだ。
目を逸らしたくなる。それは彼が持つ光からではなく、光を持たない自分から、だった。

流れている汗を邪魔そうに袖で拭いながら、彼は僕の報告に耳を傾けている。
聞いていないのかと思うくらい寡黙な彼の態度に、少々不安を抱いたが面倒なので続けた。
一通り説明し終えると、彼は僕から受け取った書類をまじまじと読み返した。
とりあえずは何とかなったのだろう。近藤に報告するより早く済んだかもしれない。
小さく安堵のため息をつきながら、書類を眺めている土方を見た。
僕の視線には気付いていない。左右によく動く黒い双眸をしばし眺める。
初めて土方を見た時、光のない眼を持つ男だと思った。闇夜のような暗い色だと。
だけどその眼の色とは反対に、彼は心に光を宿している。
その食い違いに僕はひどく戸惑っていた。じわじわ広がるのは、この眼が原因かもしれない。
これ以上、妙なものを広げたくなくて、僕は口を開いた。

「その他、そっちから何か報告はあるかい?」
「…特にないな」
「わかった、じゃあ失礼するよ」

淡白な彼の態度に今日ばかりは感謝しながら、僕は彼に背を向ける。
ここの道場がこんなにも息苦しいとは思わなかった。
引き戸を開けて外の空気を吸った瞬間、何かが軽くなった気さえした。
すっかり冷え込んだ深夜の風を受けながら、後ろ手に戸を閉める。

あと数秒、戸を閉めるのが早かったのならば。
この感情を自覚しないで済んだかもしれないのに。



「夜はちゃんと寝ておけ」



思わず振り返った。だがその背中はただ竹刀を振っているだけで。
幻聴だったのだろうか。聞き間違いじゃないとすればなんと性質の悪い。
僕は結局その言葉に対して何も言えないまま、静かにその場を逃げるように去った。

真選組の誰にも、篠原君にさえ、睡眠時間が減っていることを話した覚えはない。
そう簡単に疲れを顔や態度に出した覚えもない。自分の弱みを見せるのは嫌いだから。

無意識に隊服の胸辺りを掴んでいた。
皺が残ったらやっかいだ、だったらさっさと手を解くべきなのに。
手を放そうとすればするほど胸の奥の痛みがじわりと広がっていく。
その痛みを抑えようとして、手が震えるまで強く服を握りしめる。
よくわからない感情が渦巻いていた。こんなものは、知らないしわからない。
でも確かに、ここにある。その存在の重さが何よりも痛かった。

夜空を見上げた。たくさんの星が見える。
作品名:喪明曲 作家名:しつ