この腕
悪魔の腕
「血は十分、陣も記憶した、己の身のみ有れば」
呟き、事務所を出るバージルの姿をダンテは見逃さない。
「おい」
夜闇を往く青色、その腕に握られているのは一振りの日本刀。
「バージル」
声も脚も届かない。よぎるのは、あの日の予感。
しかし焦燥に駆られるダンテが駆け出すとともに、バージルの歩みは止まる。辺りを見回してダンテは目を見開く。そして香る、濃厚な、魔のにおい。
「少し、留守にする」
「おいバージル、あんた」
「少しだ。然程時間は掛からない」
淡々と答えるバージルは鞘より抜いた刀で自分の指を斬りつけた。左の人差し指と中指が血にまみれる。それから血まみれの指を地に這わせてゆく。
「バージル、俺が訊きたいのは留守番の時間なんかじゃあない」
指は砂埃に覆われた地面へ真赤な軌跡を残す。明確な意図をもって残される軌跡は大きな円であり、星の様であり、また蛇の這いつくばった様な文字に似た何かであった。
「ここがどんな場所かわかってるのか、ってことだ」
「どんな? ……こんな場所だが?」
笑い、腕を広げたバージルの足下は血だまりができたように赤く染まっている。真赤な血で書かれた、禍々しい魔法陣。
「若い頃塔おっ建てた土地にこんなモン書いてまたあっちに行くつもりかよ」
「魔界へ? それもまあ、悪くはないだろう」
陣の中心へ歩みつつ、弟の言葉を鼻先で一笑。
「今回は二十年前の逆だ」
相も変わらず淡々と言いながら胸元を探る。そうしてコートの内よりバージルが取り出したのは、小さな薬瓶。コルクに栓をされた中で、深紅の液体が揺れる。
「俺はどこへも行かない。こちらに喚ぶ」
ダンテは何を、などと野暮な質問をする様な男ではないから、刹那のうちに察し、さらに目を見開いて駆け出す。
「バージル!」
ダンテが兄の名を叫ぶあいだにバージルはコルクを抜き取り投げ棄て、瓶を地へ向け傾ける。中身はとろりと瓶の口より出でて、魔法陣を成すバージルの血液と混じり合う様に地中へ滲み入った。
「お前は来るな!」
かと思えばバージルの手には瓶ではなく刀――閻魔刀が握られ、ダンテが彼へ近づいてもいないのに斬り飛ばされた。
魔法陣から濃厚な魔のにおいが溢れ返るなか、バージルが誰へ宛てるでもなく、静かに言う。
「奪われるものか、触れさせるものか、誰にも、何にも」
においに次いで闇より黒々とした深い、重い霧が場を覆う。この場はもはや人界も魔界も無い。
そして朦朧とした意識と利かなくなった視界の中にダンテが見つけたのは双眸。自分とそっくり同じ、青色の。
「俺とネロの問題だと言ったはずだ、触れるな」
ただ、それをいつも見る片割れのものと結び付けることはなかった。あの日の瞳。見覚えのない瞳。
「手など伸ばしてみろ、骨も肉も血も細胞もなくなる」
双眸はあの日より昏くぎらついて、鮮やかな青に染まっていた。
「さあ腕を出せ、いとしき我が子の腕を!」
悪魔の抱いたこころは狂気の刃を剥き出しすべてを斬り刻む。