かぜがふく1
正直、不運と言うものに小生は慣れておった。いや、慣れておるつもりじゃった。
だが世とは、こほどに広いかと、目から鱗がはげ落ちるほどに鮮烈な不幸を小生は今まさに目撃した。
「なんということだ…」
世が世ならば下々のもの共にまで認められた真の覇王となったであろう小生が、うっかりと言うには些細な不注意により、転ぶと言うにはいささか過ぎたる川流れからの滝落ちを完遂し、己が不幸を嘆いていたさなかの出来ごとであった。
静かな崖下の森の中に轟音を響かせて流れ落ちる尊大な大自然の滝は、心を洗い流すどころか、小生の懐の財布の中身までをも流しきってしまった。
さらに頭から褌の中まですぶぬれで、滝壺で草鞋を片方なくし、ぶつけた頭の瘤に小枝が刺さり、鉄球が滝壺のどこかに引っ掛かったらしくこの場を動くことさえできなくなり、暗い気持ちが心を満たさんとする時にそれは起こった。
遠くから、甲高い音がするのを、あぁ空からかと見上げた瞬間。
なんぞ光った、と思ったのと、身体が弾き飛ばされたのはほぼ同時であった。
それは、滝壺どころか滝そのものが吹き飛ぶ大爆布だった。
いかに小生といえど、ぬるむ足元では受け身もとれず、梃子でも動かなかった鉄球の支えがなければ流れに逆らうことなどできようはずはない。
大岩が吹き飛ばされ、水は豪雨となり降り注ぎ、熱風に飛ばされた崖から崩れた土石がつぶてとなって襲いかかる天変地異の如き大災厄。
「うおぉぉぉ!ついに箒星が待ち切れず降り注い────
がっ
飛んだ石が前歯を直撃したので一旦黙る。
だが、おかげで冷静に考える時間ができた。
頭が冷えたかい…と言う聞き慣れた半兵衛の幻聴は所詮、幻聴にしかすぎない。
大爆布が雨と成り果てるはずの束の間、雨音をつんざいた音は、それこそ聞き覚えのある奇怪な金属音。それと何者かの叫び声だった。
「いけぇぇぇ忠勝っ!」
────ッ!
雨のように降る吹き上げられた滝の水が、どっとさらに外へと弾き飛ばされ、青白い輝きと共に黒光りする巨大な姿があらわとなる。
掲げられた機巧槍。
支援機と共に張り巡らされた雷が落雷として槍に収束する。
鉄面と鉄壁の鎧により築かれた重厚な異貌。
そして背に頂く嘉成の陣羽織を纏った主の姿。
「ひょんだ忠勝だとぉ!」
再びの落雷により弾け飛んだむき出しの地面を巨大な足で踏み締め立つのは、戦国最強本多忠勝。
背から肩に足を掛けているのは、目深まで嘉成のかむりをした葵紋を背負うかつての同胞、徳川家康。
降り降ろした槍が血飛沫をまき散らすが、それは二人が流した血でないことは明らかだった。
「まさかまだ生きているとはな…」
かむりの影となった顔の中で静かに光る忌々しげな目で、言い知れぬ悲哀を滲ませた低い声で、眼下のものへと家康が吐き捨てる。
未だかつて見たことがない燃え盛ってなお消える限りを知らぬ憤怒をたぎらせた目に吊り合わぬ声色の家康が、そこにはいた。
辛酸をどれほど舐めようと罪を憎んで人を憎まぬ日の光のようだと評される家康が、なにゆえ猛るのか、恐らくはその矛先にいる者だけが知るであろうことは分かった。
「さすがに空から真っ逆様は平気とは言いがたいんだが」
「おめぇじゃなきゃ死んでるだろう」
しかし、言葉とは何と軽いのだろうか。
殺気で小生の肌はびりびりと震え、雨の刺激さえ感じぬと言うのに、しかとこの耳に聞こえる言葉はまるで殺意がない。
この場では交わす言葉など飛び散る小石ほどの価値もないのだろうと、如実に突き付けられた気がして。
小生の鞭撻な口さえ、意味ある言を発するものは等しく呪われたように、重く閉じざるをえなかった。
ただ小生に許されたのは息さえも潜めて、目を凝らして場の子細を見極めることだけであると思われた。
それほどに、両者はただ互いだけを睨み付けていた。
いや、睨み付け合うと言うには語弊がある。
まなじりをつり上げ歯を食いしばっているのは、家康のみだった。
徳川家康の前に男が一人刀を掲げて座していた。
刀は大爆布を引き起こした機巧槍と組み合わされ、冗談としか思えないが、実際に一撃を受け止めていた。
雷電が迸る本多忠勝の槍に対し、黒い爆炎が噴き出す刀が雷を飲み込みながら火の粉を散らしてにじり寄る。
どこか茫様たる雰囲気さえ感じさせる声の主は、この黒い刀の使い手に相違なかった。
本多忠勝に見劣りこそすれ、身の丈のなんと巨大なことか。
肉の塊が鈴生りになった、栗毛の駿馬もかくやな洗練された筋肉の付き具合。
そして、このような場での出会いでなければ目が釘付けになったであろう、全裸。
ある意味で忠勝の背の家康の影をかき消して余りある存在感を放つ男であった。
だが、生死を掛けた勝敗は、誰の目にも既に決していると見えた。
鎧を濡らすだけで無傷の本多忠勝に詰め寄る男の素足は、力負けして半ばまでが地面にうずもれている。
それだけではない。
あらわになった全身の皮膚と言う皮膚が内側から弾け飛び、雨に洗われ続ける傷口がそれでも血潮の赤さを失わない極度の負傷、いや死傷。
目玉も歯も髪も見分けがつかないほど血が噴き出した赤い人影こそが今の男の姿であった。
家康の言う通り本当に、死んでいないのが不思議で仕方がない。
死んでいないどころか、槍を、本多忠勝の槍を支え切っているなど、怪事としか言えないのだ。
「ここで尽きてもらう。わしとわしの守る全てが望む世を、おめぇは、壊す!これ以上、踏み入らせはしない!この泰平の世に!」
────ッ!
肩の上で握り拳を掲げた家康の周囲で、先程とは比較にならぬ風のうねりが生じる。
うねりは岩影から覗く小生の髪をばたばたと揺らし、じきに風と思われたものの正体、本多忠勝の発する莫大な雷光の具現をもって太陽より鮮烈な後光として家康を照らし出した。
霧雨の覆いを内から照らす雷は、虹さえも生み出し、その紫電の半径を急速に広げて行く。
殺気とは異なる刺激が肌を撫で回し、うぶ毛が総毛立った。
「いくぞ忠勝!わしらの力を!守る力を見せてやる!」
──────ッッ!!!!
小生は伏せるのが遅れた、そのささやかな失敗ゆえに、直後に何が起こったかを目撃することは叶わなかった。
平たく言えば、気絶したのだ。
顎先の痛みに呻いて、急激に意識を小生が彼岸から引き戻した時には、全てが終わっていた。
手をついた地面は乾き切っていたし、滝は何ごともなく流れ落ちていたし、二回りは大きくなった滝壺は静かであったし、小生は覚えはないが焦げていたし、鉄球は後方まで投げ出されていたし、崖下の森は既に静かであった。
正直、不運と言うものに小生は慣れておった。いや、慣れておるつもりじゃった。
だが世とは、こほどに広いかと、目から鱗がはげ落ちるほどに鮮烈な不幸を小生は今まさに目撃した。
「なんということだ…」
静かな水面には不釣り合いな黒い影が浮かんでいた、いやそそり立っていた。
それは、すすけた刀を掲げていた。
それは、黒い二本の手と一つの頭を持っていた。