かぜがふく1
それ以外は全て水に没し、ゆらゆらと黒い揺らぎとして見えた。
辛うじて人の形を残したのさえ僥倖としか言えない、渾身の一撃を、男は受けたのだろう。
それが男であったことさえ、もはや判別などつきようがなかった。
「負けたのか、やはりな」
あの家康がなりふり構わず怒り狂うとなれば、相当の極悪人であったのだろうが、凄まじい限り。
思うだけで背が薄ら寒くなる仕打ちである。
温厚な者ほど怒らせると怖いと言うが、家康はまさにあれであろう。
敵に回すのは賢くないことだけは肝に銘じておこう。
半兵衛は温厚の内に入らぬから除外する。
小生は己の聡明さを証明すべく、迅速にこの場より撤収することを選択した。
金や草鞋はまた作ればいい、ただ前に進むことだけは止めてはならんのだ。
一目散に鉄球を回収しに走る。
日も落ちるに任せて薄暗くなる深緑の縁になど誰がいたいものか。
勝手知ったる穴蔵にいるために誤解されがちだが、こう見えても暗いのはあまり好きではない。
だが、やはり小生は運が悪い、つきがない。
吹き飛んで回収しやすくなったはずの鉄球は、また新たな岩の隙間に挟まり込んで、にっちもさっちもいかない状態となっていた。
これは掘り出さんことには身動きが取れない。
小生の運の悪さは悲しいかな筋金入りである。
ここにいれば、また何か、必ず何かが起こる!
小生は必死になった。
手枷で岩を打ち付け、ひたすら無心に、力任せに砕く。
みるみる内に岩は砕け散るが、次から次から詰み上がった岩が上から転がり落ちる。
「ぬおぉぉぉぉぉぉ!不運じゃぁぁぁぁ!」
八つ当たりの力をありったけ込めた、必殺の一撃が、予想外の威力で岩を吹き飛ばしたのはその時だった。
への字に曲がっていた口許がゆっくりと緩み、何かに気付いて引きつる。
見たくないし見ていないし気付きたくなかった。
「……っ……ぉ……」
岩は砕け散り、鉄球は丸裸になり、小生は解放されたはずなのだが、足はがたがた震え、今にもちびりそうだった。
砕け散ったはずの岩の断面が滑らかであるはずなどないのだ。
なんとか後退さった小生に鉄球がついて来る。
岩には大きな枝が生えていた。
大きな長い黒い枝だ。
見覚えがあるはずがない。
黒い枝には鍔飾りなどないし、柄そのものもない。
朽ちた刀などであるはずがない、思い込みでしかないはずだ、死んだはずだ、黒焦げだったんだぞ、小枝みたいに肉は吹き飛んで、でも消し飛んではいなかった、死んでいない、死んでいたはずだ。
息をひたすら、吸って、吐いて、吸って、吐いて、後退り、焦げたにおい、臭い、吸いたくない、吐くしかない、心の臓が痛い、小生は官兵衛だぞ、侍が怖いものなどない、死んだはず。
もう後がない事がわかった時には、頭が痛くて仕方なかった。
家康はなぜ小生に気付いてくれなかったんだ、連れて帰ってくれれば助かったのに。
背後に何かがいるのは、きついきつい焦げた臭いでわかった。
だがもしかしたら前にいて小生には見えないだけではないのか。
或いは真横にいて死角からこちらを覗いているのではないか。
日よ墜ちるな、まだ小生を一人にするな、嫌だ暗くなるのは、今暗くなるのは駄目だ。
びちゃっ
滝の音とは違う音に、ゆっくりと、分かっている、小生は、振り返ってはいけない、後ろを、分かっている、振り向く前に目が合った。
真っ白な目が熱で曇った澱んだ目が瞼の焼け落ちた崩れた肉の頬の途中でこちらを見ていて歯がずるずるの舌を絡ませて何か言いたげに黒い粘液を吐き出してこちらを見ていたのを小生は見返して。
「ぎややああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
それが小生、黒田官兵衛があの森で最後に記憶した、極めて忌まわしい、光景だった。
【鬼が来たりて風が吹く】