泣くまで抱いててあげる
傍らに置かれたカップに手を伸ばし、冷え切って久しい珈琲を一口ずつ喉に流し込みながらマルコはパソコンの画面をスクロールした。
読み返しているのは、白ひげが統治する地域の経済、政治に加え、同盟組織のそれらと他ファミリーの動き、その他諸事項に関して下から上がって来た膨大な量に亘る資料を、内容の関連性に基づいて類纂したものだ。新しく正確な情報というのは大きな組織ほどその重要性は弥増す。日々更新するそれらを緊急性の高いものとそうでないものとに分け、さらに関連事項の提示とそれらが及ぼす影響、対策について簡潔かつ適切に纏め上げ、ファミリーのドンである白ひげが決裁の指標とするに過不足無い状態へともっていくのがマルコの仕事の一つだった。
若くして幹部の一端を担うマルコは、仲間内でも状況判断・分析能力に優れていると評価は高い。一貫として冷静に物事の流転を見極め、ドンである白ひげの歩む道を理路整然と補う。ファミリーの行く末にまで思慮を巡らすかのようなマルコにファミリーの信頼は厚く、その張り巡らされた思考は透徹として他ファミリーに僅かな隙を突くことも許さない。ゆえに、マルコの編纂した情報というのは絶対の信頼に基づいて重宝された。マルコにとっても、それが敬愛してやまない親や家族達の役に立てているとなれば、多少の睡眠不足など苦でも何でもなかった。が、さすがに毎夜続けば疲労は確実に蓄積される。
「こんなもんか…」
マルコは背凭れに上体を預けて深く息を吐いた。眼孔の奥に鈍痛を感じて目頭を指で揉み解す。そうして暫く目を閉じると、空になったカップを手に起き上がった。
疲れた身体を眠りに委ねる前にカップ一杯のカフェオレを飲むのが、組織の幹部を任され捌かねばならない仕事量が段違いに増えた頃からの習慣になっていた。
脳を覚醒させ続けるために濃いブラック珈琲を、疲れを癒すために砂糖とミルクたっぷりのカフェオレを。まさか相殺効果などあるまいが、まだ増えた仕事に慣れず翌日ふらふらしていたマルコに、気休めだと一杯の甘ったるいカフェオレを勧めてきたのは派手な髪型をした悪友だった。程なくしてその友人も幹部へ昇格し、顔を突き合わせては欠伸を噛み殺していたのが懐かしい。
マルコはふわりと欠伸をし、ガリガリと頭を掻いた。この分ならベッドへ入ればすんなり眠れそうだと柔らかい感触に想いを馳せる。
かたん、とリビングから音がしたのは、隔てる扉一枚にちょうどマルコが手を伸ばしたその時だった。
職業柄、意識せずに自然と身体が緊張する。いくら白ひげが強大な権威を誇って君臨していようとも、やはり敵はそこらじゅうにいた。白ひげ本人は無理でも幹部の一人くらい、と考える浅薄な輩がいないとも限らない。実際件の悪友は一度外に持った自宅を急襲されている。あの時の文字通り怒髪天を突くような友人の怒りは、今では酒の肴になるような笑い話だ。
相手に気取られる境界線を越えないよう、マルコは扉一枚隔てたままリビングの気配を探った。呼吸を細く抑え、扉に身体を沿わせて意識を集中させる。が、どうやら不穏な気配は見当たらないようだった。その代わり、小さな気配が微かに揺れ動いている。どこか当惑したようにも感じるその気配の持ち主の心当たりが一つしか浮かばず、マルコはふうと息を吐き出すと取っ手を捻った。
音を立てないようにも出来たが、敢えてマルコはカチャと音を立てて扉を開いた。途端に硬くなる気配に気付かれないように溜息を吐く。闇が垂れ込める室内を見渡せば、部屋の隅で小さな塊が蹲っていた。
マルコはその塊を一瞥すると、特に何を言うわけでもなくキッチンへ向かいカフェオレを淹れた。その間、じっと付き纏うピリピリした視線は丸っと無視した。
そうして、淹れ立てのカフェオレがほわほわと立ち昇らせる香りに満足してカップを傾けた。熱く甘い液体がじんわりと身体に染み渡る。疲れが溶け出すような錯覚に目を細め、いつの間にか外れた視線の先へ目を向ける。
いつまでも慣れるということをしない子供に、別段マルコは焦ってはいなかったし、業を煮やしてもいなかった。どうやら自室から毛布を引っ張って来たらしく、子供は毛布の中に埋まって頭の天辺しか見えない。
シンクに片手を付いて、ゆっくりと甘い液体を飲み下す。
おそらく、嘗て与えられたことの無いものを無造作に投げて寄越され、困惑ともどかしい怒りの渦中にあるのだろう。白ひげが与えようとしているのは、一見して萎縮してしまいそうなほどに大きすぎる安らぎだ。日常を神経を張り詰めて生きて来ただろう子供にとって、それが今まで他者に隙を見せないことで培ってきた鎧が崩れ去るような恐怖を味わせたとしても不思議じゃない。
仔細は違ったとしても大まかにはそんなところだろうとマルコは思っていた。だから子供が落ち着くまでいくらでも待つ気でいたが、こんな静まり返った部屋の片隅で孤独に蹲らせておくくらいなら、最初の踏み出す足先くらい強引に引っ張ってやってもいいかもしれない。
気付けば少しずつ空が明るんで来ている。
今まで幾度、眠れない夜を孤独に埋もれてやり過ごして来たのかとマルコは十に満たない子供の人生を思い、顔を顰めた。
カタンと飲み干したカップをシンクに置いて、マルコはゆったりとした足取りで子供の元へと向かう。毛布から顔を覗かせ、ギリギリと警戒心剥き出しで睨みつけてくる子供を見下ろし、目線を合わせるように膝を突いた。
「寝れねェのかい」
「……」
視線が強まる。
マルコは手を伸ばし、だがその手は子供に触れる前に叩き落された。
「さわるな!」
「そう尖るなよい」
「うるせぇ!どっかいけよ!」
たった一桁生きただけの子供の視線は殺気すら孕んでいた。
マルコは溜息を吐き、素早く伸ばした両手で毛布を掴むと、子供が何か抵抗する前にぐるりと毛布を巻き付け軽々と抱き上げた。
マルコより高い位置に抱き上げられ、ひと時自失していた子供は、マルコが歩き出すとはっとして暴れだした。と言っても、簀巻き状態では所詮高が知れてはいたが。
「おろせよ!ふざけんな!」
「ガキのくせに夜更かしし過ぎなんだよい」
馬鹿じゃねぇのかと暴れる塊を意に介さず、マルコは自室の扉を開けた。
作品名:泣くまで抱いててあげる 作家名:ao