吸血鬼の涙(上)
ああ、この人が自分の主の想い人なのだ、と隼人はその時悟った。自分には綱吉しかいないけれど、彼には自分以外の世界があるのだと。そしてよほどショックだったのか。何度もその時の夢を繰り返し見た。
シーツに潜り込み、密かに涙を流していた自分に、綱吉は気付かずに部屋から出て行ってしまう。呼び止める事など、隼人は出来ない。そんな権利も無い。夢を見る度にそう言い聞かせてきたけれど。
ほんとうは気付いて欲しかった。せめて夢の中だけは。
でもそれは適わず、今日もいつものように綱吉は去っていくのだろうと夢の中の隼人はシーツを深く被り眠っている振りをする。だけど。今日の綱吉は去って行かなかった。かわりに。
「君の事も大事だよ。オレの隼人」
そう囁いて隼人の頬に流れる涙を舌で拭った。
「!」
なんて自分にとって都合の良い夢。自分の浅ましさを思い知らされた気がして。隼人ははっきりと目を覚ました。そして現実の状況に驚く。
オレ、まだ夢から覚めてないんだろうか。
綱吉の腕の中に隼人はいた。彼のベッドで、細くはあるが意外としっかり筋肉のついた腕に優しく抱き込まれている。主の顔は疲れを色濃く残していて。
隼人は先程までの出来事を思い出した。
オレは10代目になんてご迷惑を……。
彼に生気を求めた自分を思い出し、恥じる。それを今更無かったことには出来ない。
せめて起きた時にきっと腹を空かせているだろう彼に豪華な食事を作ろうと。隼人は綱吉の腕からそっと抜け出した。
いつもの夢、何度も繰り返しはっきりと現実として覚えている出来事がなぜ変化を起こしたかは良く分からない。ただ隼人はあれは自分の願望だ、と言い聞かせ忘れる事にした。
変化の理由。
それは綱吉が隼人の夢に干渉した事が原因だった。
「買出し、行かなきゃあまり材料がねえ……」
正直外を歩くのは嫌だった。久しぶりにサキュバスの本能を開放して、まだその余韻が残っている気がして。街で人間らしからぬ行動に出る可能性も捨て切れない。
あ、奥の食料貯蔵庫になんかねえかな。
屋敷の奥には災害時用の食料庫がある。オレ達にとって普通の食べ物は非常用じゃないしあんまり意味ないよな、と綱吉はよく言っていて。使いたいのがあったら勝手に使っていいと鍵も貰っていた。
今まで足を踏み入れたことはなかったが、今日はそこにあるものに世話になろうと隼人は考え食料庫へと向かった。
隼人が部屋から去った後すぐに。綱吉はゆっくり体を起こした。
……ずっとあの言葉が君を傷付けてたんだね。オレが君の気持ちを試す為に言ったあの言葉が。
京子が大事な存在というのは確かだけど。ずっと一緒にと願ったのは彼女じゃない。あの言葉は隼人が自分に向ける気持ちを試したかったから告げたのだ。あの言葉くらいで離れて行く存在なら。いらないと思った。
でも彼はずっと傍にいてくれて。だからあの言葉に彼がずっと囚われていたなど今日まで知らなかった。
隼人は今では綱吉が望むとおりの存在。だから。
もうあんな昔の言葉に傷付かなくていいのだと夢に干渉して結末を変えさせたけれど。
それを隼人は自分の願望だと思い込んでしまっているようだった。
「リボーン、今日のあれはどういう事なんだ?あいつらのせいで獄寺君は死にかけたんだぞっ。オレの試験は事前に連絡がある筈だろ。今日のは何も聞いてない」
貯蔵庫にあった缶詰類やワインを使い、いつもより豪華な夕食を作り上げた隼人は綱吉を呼びに彼の部屋のドアの前に立ち。ノックをしようとしてその手を止めた。
中から聞こえて来るのは不機嫌さを滲ませた綱吉の声。
今日の事を師のリボーンに追及しているようだった。
『今日のはこっちの監視不足だ。監視を強化したからもう今日のような事はねえと思うが……何であいつらがあんな真似したか分かってるよな?』
「ああ、人間界で温く暮らしているオレが魔界の支配者になるのに反対してる奴は多いって事だろ。正式な試験前に油断させといて、んで今日もし一般人に怪我人を出したら、魔界の王がちっぽけな人間界の変化に関知出来ないとはとかって、それを理由にオレが支配者に相応しくないって言い出すつもりだった、だろ」
『良く分かってんじゃねーか。分かってんなら本番の試験は気張れよ』
「…ああ」
一瞬間を置いての綱吉の返事に、隼人の心はつきりと痛んだ。綱吉は多分魔界の支配者になる事など望んでいない。だが彼の中に流れる血は、その運命から逃れる事を許さない。試験も手は抜かないだろう。
哀しい人だと思う。
その哀しい人に寄り添ってその心を癒やしたい、とも。
っ、なに大それた事考えてんだオレは。それはオレの役目じゃねえ。
綱吉を癒せるのはあの写真の少女……笹川京子、だ。
綱吉に京子との事を尋ねる勇気は隼人には無かった。二人が上手くいくというのは隼人にとって綱吉との決別をはっきりと知らされる事につながるから。
話し声が終わる。
綱吉がリボーンとの会話を終了したようだ。
隼人は今度こそドアをノックして、夕飯の準備が出来たことを主に知らせた。