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ハイドロゲン
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novelistID. 3680
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米英普英詰め合わせ

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(米英)
 

 「それで、ちゃんと言って来たんだろうな?」
 「もちろんだよ!寧ろ君の学校に行きたい、って行ったら途端目を輝かせてさ」
 「…そうか。なら、何よりだが」

 自室へと続く階段を上る。アルフレッドが足をつく度にギシリと音がした気がしたが、そこまで気のせいでもないだろう。 学校から程無く近いこのアパートは住み始めてもう三年が経つ。
 慣れた動作でキーを通し、扉を開けてやれば人のことは言えない程瞳を輝かせたから思わず頬が綻んだ。やはり余り変わってないんだなと、どことなく安心する。こいつが俺の部屋に来た事は数える程しかないが、毎回扉を開ける度映画の世界が広がっているような子供らしい表情をたたえるのを見るのは嫌いじゃない。

 アルフレッドは一つ下の弟で実際に血も通っているが、苗字が違う。両親が離婚した為だ。理由は俺にとっては至極下らないもので、だけれど彼女達にとっては甚大なものだったらしい。ようはどこにでもある離婚だった。そんな訳でアルフレッドは母方に引き取られ、俺は父方に引き取られた。母は家柄も良く仕事にも励む人で、最近まで年に何通か交わしていた手紙を察するにアルフレッドも、そしてアルフレッドの双子の弟のマシューも変わらずそこそこ良い暮らしが出来ているようだった。
 
 粗雑に脱ぎ捨てられたスニーカーに小言を飛ばしながら(それでも奴は聞いていない。くそ)CDショップに寄る前に済ませた夕飯の買い出しを玄関に置く。取り敢えず事情を詳細に聞き出さなくては。腹は減ったが、それどころではない。改めて面を上げて、アルフレッドを見れば勉強机代わりに使用している折畳のデスクに置かれた紙を熱心に見ていた。
 
 「これ、君が書いたのかい?アーサー」

 何分何時もあんな調子のこいつが、ひどく真摯な横顔で読み耽っていたから。少し呆けてしまい意識が戻ったのは声が掛けられてからよりだった。簡単に笑みを繕うことで、浮ついた気分を立て直しつつ隣に立つ。ひどく身長差がある気がした。

 「…いや、違う。フランシスが」
 「へぇ、彼がこんな繊細な詞を書けるとは思ってなかったよ」
 「なんか上手く書けた記念にやるよとかふざけたことぬかしやがってさ」
 
 ふうんと興味の無さそうに手に取った詞を見下ろす。
 いや、違う話はまずそこじゃないんだった。しかし慌てて話題を寄越そうとした俺を長年の経験から察したのか、アルフレッドは満面の笑みを浮かべ、「それじゃ改めて」と咳払いを一つすればそれはもう屈託の無く言い放つ。だが結局笑顔の余りの可愛らしさと、雄弁な長い説得に根負けし肯いてしまう俺はやはり弟には弱いのだ。


*

 ふと目を開けたら、綺麗に整えられたベビーフェイスが在ったから思わず注視してしまった。元来から年相応の、透徹した爽やかな面持ちを掲げて居たが歳月を侮っていたらしい。それに加え今となるや、吐息を誘う甘味さえ受け取れる。眼鏡、やめりゃいいのに。高く通った鼻筋をなぞり乍、そう思ってくすりと笑んだ。だが矢張り寝顔は、変わらない儘だ。

 丁度身近にあった毛布を掛け、欠伸をしつつ立ち上がる。この調子ではまだ暫くは目を覚まさないだろう。仕事を手伝えと傲岸に呼び出したのはこちらだったが、こいつだっておぞましい量の書類に体をすり減らしているのは見て取れる。それでも、俺が呼んだのならヒーローはと続く阿呆な台詞を携えた裏で、空白の無いスケジュールを塗り潰し関係者に見合わず頭を下げてまで駆け付けてくれるのだから、愛しさも一入だ。

 思えば貰ってばかりいるのは俺の方だ。感化されたのも、俺の方である気がしてならない。瞼を瞑らなければわからないような慕情の示し方を、こいつは根幹ではしてくるから、

 数度頭を撫でデスクへと向かう。ホテルの手配の一つでも、たまにはしといてやるかな。



*

「猫を、拾ったんだ」
 
 余りに自然な流れで、話し途中にアーサーの方を見てみたら見覚えどころが印象すら皆無の黒猫を撫でつくろっていたから驚いた。きっと俺が帰ってくるまでに風呂に入れて、その愛に満ちた手つきで毛布に包ませていたのだろう。艶やかな黒毛に、赤いリボンがよく映えている。
 アーサーがこうして動物を拾ってくる癖は、大学に入ったぐらいから始まった。
 その時彼はもう大学三年生で、寂しさにその緑色の瞳をじっと涙に震わせる年齢も終わったと踏んでいたし、実際に以前に比べてずっと弱音を吐かなくなったと思う。多分その衝動が、これだ。
 
 「ちゃんと、温かい頃になったら戻してあげるんだよ」
 「わかってるよ」

 穏やかな横顔で短めの前髪を垂らし、俯いている姿はどことなく庇護欲がそそられた。そして更にその下で、眠たげに眼をこすっている猫も同様だった。
 でもきっとわかっている。優しいこの愛おしい小さな人が、一度自分の慈悲を見つけた相手を放り出すことなんて出来ないことを。最初は猫好きな、友人にこぞって引き取ってもらっていたがそれもそろそろ利かなくなるだろう。そうしたら術は限られてくる。その時、俺はどうするのだろうか。捨てて来いと強制することは先ずできない。つまるところこの人が小さくて弱いものを愛でて育てるのが好きなのと同じくらい、俺はこの人を愛でて懐に置くのが好きなのだ。
 
 ふわりふわりと、しごく柔らかい爪先が額をなぞる。
 遠く遠く、ただ、いとしさにつんのめった。

 

*


紫色をした暗雲の隙間から、一筋の光線が根元から延びていく。最後の滴が眼球に落ちて、それが涙に変わった。もう狭義な光景に溶け込むのはひたすらの青でしかない。そして幕引きのような手続きで、壁を壊すような心地で、同時に深奥から引き摺りだされた後のまっさらな、程なく何の彩も無い掌握感があった。これをなんて名付ければ良い。水溜まりに、めちゃくちゃな顔をして抉れる位に目を拭う俺の背後に空はまだ広がる様がある。緑色をした日溜まりだ。
 雨の残り香が鼻につんとした。ビルの窓に差し込み、また反射を繰り返し、拡張が続き、俺は1人ぽつねんと立ち尽くしている。
 なぁ、アル、世界の終わりってこんな感じなのかな。
 柄にも無くそう思った。
 だって、空はあまりに綺麗だったから、柄にもなくそう思ったんだよ。


*


 この寂しさを殺してしまうのは勿体ないだろう。如何様にして俺を放置しても結果は同じだ。
文字という非現実な媒体を通じ、そしてまたその中に生きる自分こそ現在の否定にはなるがそれでも義務は果たすまでなのである。

 いつかこの手記を覗くだろう私へ。

 余りに、決して驚いてはいけない。黒革は外さず、ベッドに横たわり両手を掲げ声を出して読み深めてくれ。だが決して諦めないでくれ
夢がなくては人間生きれぬ。人間が死す為に夢は程なく優しく笑むだろう
怖いね。



(アーサーという一つの個人は、ひどく人間的だ。
皮肉の極みである。彼は知る、栄華を。彼は衰退を憎むだろう。然し彼は掌握する、裏切り、自己の破壊、経験、普遍、誕生、存亡、欺瞞、拘泥、星霜、光輝、寂然を。またそれらに類する全てを。

恐らく光あらんことを。)