家族ごっこ【上】
#2
坂上が勤める会社は土日が定休だ。だからこそ土曜日に約束をとりつけたのだが、朝早くに早苗から連絡があった。
「ごめんなさい。納品の件でトラブルがあって、出勤しなきゃならなくなったの。ふたりで楽しんでくれるかな?」
実は「知らない者同士がいきなりふたりきりで会うのはどうか」という配慮から、今日は早苗も含め三人で会うことになっていたのだ。
「トラブルなら仕方ないですよ。わかりました」
これで、初対面の女性と二人で会うことになってしまった。了承して受話器を置くと、坂上は浅く溜息をついた。
服装に迷い、鏡の前で長いこと悩んだものの、待ち合わせ場所には、何とか約束の五分前に到着した。早苗に写真を見せてもらったので、「玲子ちゃん」なる人物の顔は覚えている。見ればわかるだろうとキョロキョロしていると、いきなり肩に手を置かれた。
「うひゃぁ!?」
それがあまりにも突然で、しかも絶妙な触り方だったため、坂上は驚いて飛び上がった。
「ふん、面白い反応だね」
振り返ると、派手なスーツ姿の背の高い男が、腕を組んで興味深げに坂上を見下ろしていた。断じて、知り合いではない。しかし十八歳にして身長160センチほどしかない坂上は、男の上背を純粋に羨ましく思った。
「君、坂上君だね。わかるよ。“坂上”って顔をしているからね」
一体それはどんな顔だろうか、とは思ったものの、坂上は別の疑問を優先した。
「確かに僕は坂上ですけど…貴方は?」
「ここに来る筈だった荒井玲子の兄、望さ」
「え?玲子さんは来られないんですか?」
「ああ、ちょっと都合が悪くなったらしいね。君の連絡先がわからないから、こうして僕が代わりに来てあげたのさ」
「はあ、それはわざわざありがとうございました」
せっかく覚悟を決めてきたのに、徒労に終わってしまった。一気に緊張が緩んだ坂上に、望はニッコリと笑いかけた。歯は真っ白だが、あまり爽やかではない。
「そんなわけで、今日は僕が玲子の代わりをつとめてあげよう。感謝するんだね」
「えぇっ!?」
口調は柔らかいが、言い分は何処までも身勝手で傲慢だ。望に強引に腕を引かれて歩きだしながら、坂上は控えめに抗議した。
「ちょ、ちょっと待ってください、荒井さ」
姓を口にした途端、望はぴたりと足を止め、蜃気楼が揺らぐような動作で振り返った。
「言い忘れていたけど、坂上君。僕のことは、是非親しみを込めてファーストネームで呼んでくれたまえ」
「あ、はい。すみません。ええと、望さん」
「何だい?」
「あの、いいんですか?貴重なお休みを僕なんかのために使ってしまって。玲子さんが来られないことは仕方ないですから、これ以上付き合ってくださらなくても……」
「…君、何か勘違いしてないかい?」
望は、小ばかにしたような顔をして坂上を一瞥すると、また歩き出した。もちろん、坂上の腕は掴んだままだ。
「君のためなんて、冗談じゃないよ。僕はいつでも、僕のために、僕がしたいようにするだけさ」
彼は不愉快そうにそう言い切ると、路肩に停めていた高級そうな車の助手席に坂上を座らせた。
「いいかい、僕は小腹が空いている。ただ腹を満たせばいいというわけじゃない、誰かと外食したい気分なのさ。もちろん誰でも構わないんだけど、まあ今日はたまたま玲子に伝言を頼まれたし、まあそれだって僕がわざわざしなくたっていいんだけど、たまたま気が向いたからね。それだけのことなんだよ」
望は運転席に腰掛け車を発進させながら、べらべらと言葉を並べ立てて最後に「わかったかい?」と念を押した。
坂上は思わず頷いたが、内心「難しい人だなぁ」と引き気味だった。
やがて車は閑静な住宅街の一角で止まった。まるで女性に対するようにエスコートされて降り立った坂上は、望が歩いてゆく先に目を向けて、「あれ?」と首を傾げた。
「あの、此処は望さんの家なんですか?」
「人の話ちゃんと聞いてたのかい?外食だって言ったじゃないか」
「え?でも……」
望が今まさに入ろうとしているのは、どう見てもごく普通の一般住宅だ。いや、いわゆるお金持ちの家であることは確かだが、飲食店には見えない。
「いらっしゃいませ」
困惑したまま望の後に続いた坂上を迎えたのは、恭しく頭を下げる初老の紳士だった。
「お待ちしておりました、望さま」
「久しぶりだね」
「御席にご案内致します。こちらへ」
「……何、ぼうっと突っ立ってるんだい?早くおいで」
「あ、はいっ!」
扉の向こうは、別世界だった。坂上は呆気にとられたまま、ふらふらと望についていった。
「こういう店ははじめてかい?まあ君は見るからに庶民だし、無理もないね。此処は本来、選ばれしエグゼクティブだけが出入りするレストランなのさ」
なるほど、こういう店を【隠れ家的名店】と呼ぶのだろう。坂上は納得したものの、目の前の男との間にある縮まらない【差】を意識して黙り込んだ。
結局、望は「気晴らしのドライブ」と称して坂上をあちこち連れ回した。移動の疲れで身体はギシギシと悲鳴を上げていたが、坂上の心は軽くなっていた。発言は不遜で時折腹が立つこともあったが、なんだかんだいいながら、望は彼なりに坂上を気遣い、優しく接していたのだ。
「望さん、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです」
最後に連れて来られた春の海辺で、波打ち際を歩きながら、坂上は感謝を伝える。
「別に、僕が行きたい場所を回ってただけだけど?」
望の視線は、沈みゆく夕陽に向けられ、その瞳に坂上を映そうとはしない。はじめのうちは冷たいと感じていたが、今ではそれが照れ隠しだと知っていた。
「そうですね。でも、望さんのお好きな場所、僕も好きです。普段の僕には縁の無い所もありましたけど、穏やかで、綺麗で」
「そう。僕のテリトリーが気に入ったのなら、まあ、よかったよ」
相変わらず地平線を見つめたまま、望は確かに微笑んだ。