雪は空に踊り
寒いねえ、と話しかけてみた。案の定返事はなかった。
窓の外では飽きることなく雪が降り続いていた。夜がすっぽりと包んだ黒い世界に白が舞う。外の様子を確認しようとカーテンを開けたけれど、室内の明かりをガラスが反射するせいで外はよく見えない。外を見たいから明かりを消してくれと言うわけにもいかず、リーマスは額を窓に寄せた。雪を被った灌木とその上にさらに積み上がる雪をしばらく眺めて、良く降るねえ、と呟くとガラスが白く曇った。慌てて服の袖で拭う。
「プロフェッサー・ルーピン」
低く呼びかけられて目を上げる。ガラスに映りこんだ室内でセブルスがぺらりと本のページを繰った。彼に教授と呼ばれるのは、説教をされるときや嫌味を言われるときや、いずれにしてもあまり喜ばしくない場合だけだ。どちらにも心当たりがあったので、リーマスは振り返らずに外の様子を眺め続けた。視界の端で黒髪の教授は顔を上げもせず、文字の列びに目を落としている。
「雪がそんなに珍しいなら外へ出てご覧になったらいかがですか」
「珍しくはないけど」
「ずいぶん熱心に見ておられるので」
「静かだねえ」
口上を打ち切って言葉を被せた。ガラスの中で、彼はぺらりとページを繰った。
「雪の日が静かなのは、雪が音を吸い取るせいなんだって。そういうの、どう思う?」
「くだらない」
「あはは、言うと思った」
呼気がガラスを曇らせる。袖口で拭ってから、手を口元にあてた。喋るたびに窓を拭うのはとても面倒でとても効率が悪いことに思えた。話は聞き取りにくくなるかもしれないけれど、それはそれでセブルスにとっては好都合だろう。
「とても寒いところに」
口を覆っているせいで自分の声がとても近い。
「挨拶が凍る街があるんだって。冬の間は、外で友達に会っても何も聞こえないんだ。火を焚いた室内でしか話ができない。おはようも、こんにちはも、口に出したとたんに凍ってしまって、道にごろごろ転がるんだ」
「挨拶が?」
「そう。挨拶が」
「歩きづらくて仕方ないだろう」
「だから道端に寄せておくんだよ。空き地や庭なんかにも」
「なるほど?」
「それで春になって暖かくなったら、挨拶が溶けるんだ」
「挨拶が」
「そう、挨拶が。春になると、冬の間中のおはようとかこんにちはで街がいっぱいになる」
「それはうるさそうだ」
「こういうのはくだらなくないの?」
「子供向けの絵本に論理的な展開を求めるほど暇ではないのでね」
「なるほど」
音を立ててページが繰られる。リーマスは額をガラスに押しあてた。
窓の外には降りしきる雪。景色を白く覆う。けれど雪は夜の闇を白く染めることはなく、また闇色の雪が降ることもない。夜は夜。雪は雪。結局。隣にありながら重なることはないもうひとつの世界のように。確固たる独立性をもって雪は夜に踊る。
「明かりを消してもいい?」
「賛成すると思うか。理由に説明が必要か?」
「外がよく見えないんだよ」
「外を見たければ外へ出ろ」
「いや」
「なぜ」
「寒いからだよ。それ以上の説明が必要?」
「それに私が付き合わねばならない理由はない」
「じゃあ、折衷案で」
リーマスは小さく笑って、それから額をガラスから離した。指の先で小さな鍵を外して、勢いよく窓を開けた。
「貴様!」
セブルスは顔を上げ、笑いながら振り返ったリーマスをぎりと睨み付けた。ひゅうと音を立てて冷たい風が吹き込み、それに乗って雪がひらひらと舞い込んだ。
「折衷案」
「・・・今すぐ窓を閉めたら許してやる」
「外がよく見えるよ」
「その窓から放り出して欲しいか」
「それは寒いからいやだ」
「今でも十分寒い!」
「あれ、君でも寒いって思ったりするんだね。ちょっと意外」
物騒な呪詛の言葉を背に受けながら、リーマスは窓の外に身を乗り出した。ガラスに遮られない夜空はよりクリアに暗い。視界に入る木や建物を意識から追い出すように空を見上げると、そこには暗いだけの空から降りてくる雪。壊れた星図のように降り注ぐ白い破片。高いところから近付いて頬を掠めるその速度は見るものの現在地を狂わせる。
すいこまれる、とは、よく言ったものだなあ。
危うくバランスを崩しかけて、リーマスはひとり苦笑する。この窓から身体が外に転がり出れば、彼は間違いなく速やかに窓を閉めるだろう。鍵をかけてきっとカーテンまでぴったり閉めるに違いない。その様子を眉間のしわまで想像することができて、リーマスはまたくすくすと笑った。窓枠にしっかり手をついて、あらためて身を乗り出す。夜空に顔を向け、それからふと思い付いて、こんばんは、と言ってみた。
「・・・なんの真似だ」
「凍るかなあと思って」
「凍ったか」
「凍らない。聞こえたでしょう?」
「くだらない」
「論理的じゃなくていいって言ったじゃないか」
「絵本の話だ。実践してみる馬鹿がどこにいる」
背後でかさりと紙が擦れる音。雪が降り込む窓をそのままに、彼は再び文字の間に意識を埋めることにしたらしい。
ほう、とリーマスは息を吐く。呼気のかたまりは白く煙って夜に浮かぶ。
「寒いねえ、セブルス」
「窓を閉めていただければそれほどは寒くないのですが」
「夜だねえ」
「返事が必要か?」
「雪だねえ」
「いい加減にしろ」
「雪だよ、ほら」
リーマスは片手を伸ばして、てのひらで雪を受け止めた。吐いた息がぽっかりと白い。凍った言葉はきっとこんな形をしている。道の端で春を待つ、たわいなくも優しい挨拶の言葉。
「ほら、雨が凍るんだよ。息も白い。挨拶の言葉が凍ってもおかしくないと思わない?」
「そうしてそれが溶けるまで待つのか?数ヶ月遅れの挨拶など何の意味がある」
「なにもない。意味はなにも、ないよ、でも」
「ルーピン、窓を閉めろ」
「それがもし」
「窓を閉めろ!」
セブルスの手がデスクを打ち付ける。その鋭い音は、けれど十分に予想されることだったので、特に驚きもせずにリーマスはゆっくりと振り返った。雪を浴びたてのひらの感覚はすでにない。緩く頭を振ると髪に付いた雪が滑り落ちた。
「セブルス、もう一度聞きたいと願ったことは?」
憎悪に満ちた顔をこちらに向けているだろうと思っていたけれど、予想に反してセブルスは本に目を落としたままだった。俯いた表情とデスクの上の手は同じように色がない。
「過去の言葉を───去ってしまったものの言葉を聞きたいと願ったことは?」
「何の話をしているのか分かりかねる」
「分かりやすく言い換えようか?」
黒い瞳は行間を睨み付けて動かない。夜の色の瞳。君はいま何を見ている?
「答えないの」
「くだらない」
「否定しないの」
「否定して欲しいのか?」
「君の話をしてるんだよ」
舞い込んだ雪が床の上で水になる。外気がこれだけ吹き込んでも雪は雪のままいられない。結晶のままでいるにはここは暖かすぎるのだろう。夜でさえ、陽が昇れば夜のままではいられない。
セブルスはデスクに乗せていた手をようやく寄せて、ぺらりとページを繰った。耳を刺す乾いた音。
「聞いて何になる」
「なんにも、ならないね」
「問うて答えるわけでもあるまい」
「・・・・そうだね」