エスケープ(ケンスケ→シンジ)
「碇」
降り注ぐ陽射しが熱い。コンクリートがじりじりと焼けて、照り返しも眩しい。扉を開けた瞬間の、視界の白さに目眩がしたけれど、ケンスケの網膜はその輪郭を捉えていた。よく見知った丸い後ろ頭が、緩慢な動きで振り返る。
「…ケンスケ」
午後の屋上。退屈な授業をエスケープするには最高の場所。だけど、目の前の彼にはエスケープなんて行為は不似合いな気がした。ケンスケの友人その二の碇シンジは、少なからず希少価値である真面目な部類の少年なのだ。
「ケンスケも、さぼり?」
それなのに、それとは無縁そうな顔で彼は、ケンスケにそう云って笑いかけてきた。撫でつけるような風に、短く切り揃えられた黒髪を艶やかに揺らしながら。
「それはこっちの台詞。“も”ってことは、碇はさぼりだろ?珍しくも…」
「そう珍しくないよ。時々、こうやって抜け出したくなるんだ」
穏やかな横顔をさらして、シンジは空を見やった。華奢なその手には、彼愛用の旧型(最早化石ともいえる)音楽プレイヤーが握られている。おそらく、彼の言葉は真実だろう。初めてのさぼり、というわけではなさそうだった。
その事実を知って、どういうわけかケンスケの胸の内は妙にすっとした。それは限りなく安堵に似ていたのかもしれない。
「俺もあるよ。そういうこと」
無意識に掴んで持ってきた鞄。その中を探る。唯のさぼりのために、どうして自分はこんな物を持ってきたのか。今、その意味がわかった。型の古いデジタルカメラ。所々傷が付いて、新型よりもだいぶ性能も劣るけれど、随分と使い込んだそれはケンスケの手にしっかりと馴染んでいて、個体特有の癖も熟知している。コイツで随分と、美しい絵空事を撮ってきた。
煩わしい鞄を脇に放って、ケンスケはデジタルカメラを構える。小さく切り取られた枠の中、フィルター越しの美しい世界でシンジが笑っている。
「僕なんて、撮って、どうするのさ」
さぁ、どうするんだろう。浮かんだ疑問に答えはなかった。唯ケンスケは、この美しい絵空事を手に入れたい。
カシャ。軽やかなシャッター音。怒った表情をしてみせた後、困ったように、呆れたように、眉尻を下げたシンジ。その表情の変化すら逃がしたくなくて、夢中でシャッターを切った。
「もう、やめてよ」
気付いた時には汗だくだった。熱の移ったデジタルカメラのボディーが温い。髪の張り付いたこめかみに、汗がつたい落ちる。目の前のシンジの額にも、首筋にも、同様に光るモノがあった。太陽はふたりの真上で、陰すら落とす暇さえ与えず輝いている。
シンジの遠慮がちな制止に、ようやく現実に戻されたケンスケは、ファインダーから顔を上げた。
「ごめん…なんか、」
夢中になっていた、とは云えなかった。それ以上に、興奮していた、だなんて口が裂けても云えない。でも、それが事実だった。つまらない現実世界から抜け出したみたいに、シンジはひどく美しかったのだ(普通、男の友人に思うことではないけれど)。こうしてファインダーを外して見ても、それは変わらなかった。
何だかばつが悪くて、ケンスケは眼鏡のずれを直すふりをした。放ったままにしていた鞄を拾い上げて汚れを払い、肩ひもを肩にかける。
シンジは、それ以上の咎めを口にしなかった。色の変わる紺の瞳を陽に透かしながら、ケンスケを見ている。出会ったばかりの頃はどこか希薄な雰囲気だった彼は、けして鮮烈というような存在感は持ち合わせてはいないながらも、確かな質量でもって今、ケンスケの目の前に存在していた。
「…シンジ。お前、変わったよな」
「そう、かな?…僕は何一つ、前と変われていない気がするんだ。相変わらず、狡くて臆病なままだよ」
弱虫なんだ。
そう云って、シンジは微笑んでみせた。地軸変動により固定された日本の真夏。青い空、白い太陽、眩しいばかりの中で、シンジの微笑だけが遠く失われた大切な何かのようだった。そしてそれは、ファインダー越しにケンスケが求めた、美しい非現実世界だった。
シンジだけが、そこに一番近い所にいる。もしも明日使徒が攻めてきたら、シンジはそこへ行くだろう。ケンスケが退屈と称した平凡から遠く離れ。ケンスケには、けして行くことの出来ない世界に。
しかしそれは、シンジにとっては限りない現実世界なのだ。ファインダー越しでもない。切り取られた美しい絵空事でもない。こうしてケンスケの前で確かな質量感を見せるシンジの、華奢な同い年の友人がいる現実である。あぁ、はたして彼の無垢な裸の紺の眼に映る世界は、ケンスケの覗き込んだファインダー越しの世界のように、美しいのだろうか。
胸を焦がす計り知れない疑問に、ケンスケは唇を噛んだ。
「時々、考えるんだ。本当は僕、どこから抜け出してしまいたんだろう、って…」
そう云って細く微笑むシンジの視線は遠くを見ているようで、ケンスケを見ている。ケンスケのいる、現実を見つめている。本来ならば彼もいたであろう、ファインダーの内側の世界を。
「碇…」
抜け出してしまおうか。なんて儚い夢を嘘でも云えない自分が悔しくて、泣き出してしまいそうにも見える微笑みのシンジを、ケンスケは抱きしめた。
薄い背に回した、右手の中に未だ収まるデジタルカメラの剥げたシルバー。それがケンスケの視界の隅できらりと光ったその時、夢中で切ったシャッターの意味が、不意にわかった気がした。本当のところ自分は、ファインダーのその内側に、彼を閉じこめてしまいたかった。
そう、したかったのだ。
End
作品名:エスケープ(ケンスケ→シンジ) 作家名:まめとら