きれいなお姉さんは好きですか?
「おまたせ」
待ち合わせ場所に少し遅れて来た人の右頬は真っ白な湿布で覆われていた。薄明かりの中でも鮮やかなそれを隠しもせず、そのままさっさと滑り台の前を横切って隣に腰を下ろす。その一連の動作はあまりにも当たり前の様子で行われたため、秋丸は湿布の下について一言も触れることができないまま、今来たとこなので、と定番の台詞をもごもごと口の中で呟くことしかできなかった。
「今日ブカツだったの?」
一息つく間もなく足元のスポーツバッグを差す。校名の入ったバッグは公園の明かりを受けててらてらと光っていた。これと全く同じものが彼女の家にもある。ただしそれはここ一月くらい一度として使われていないはずだ。
「あ、はい」
「ふーん。土曜なのに大変ね」
ま、あたしもそうだけど、と立て掛けたラケットケースを叩く。
「休みはないし。しかも夏も終わるって言うのにあっついったら」
独り言のように言い、まとわりつく熱気を払うように頭を振る。肩先でそろえられた髪がぱさぱさと音を立てて散るのと同時に、ふわりと淡く花の匂いがした。シャンプーの匂いだ。そう悟った瞬間に急に隣にいる人がよく知った友達の姉から見知らぬ年上の女性に代わったような気がして、そう思った自分にどきっとした。
「ええっと、榛名のことなんですけど」
一瞬感じた緊張の正体を知る努力はしないことにして(たぶんこれを知るにはまだ早い)無理やり話題を本題に移した。今日はそのことを話しに来たのだ。ただなんとなく会って話をするために、部活後の疲れた体で友達の姉を呼び出したりなんかしない。
「調べてみたら学校以外でも野球やれるとこはあるって。しかも、戸田まで行くと関東でもいい線いってる良いチームがあるみたいなんですよ。そこはシニアリーグって言って硬球のとこなんですけど、先のこと考えたら今から硬球でできるのって絶対あいつのためになるか――」
「元希なんか、野球やめちゃえばいいのよ」
「え」
「ばか元希っ」
吐き捨てるように秋丸の言葉を遮った人は、その続きを口にしようとはしなかった。ただ、スカートの上で組んだ指先をじっと見つめていた。
「――榛名となんかあったんですか?」
「……べつに」
秋丸はその時、弟に似た長い指が確かめるように頬に触れたのを見逃さなかった。弱小野球部でも捕手だ。洞察力にはそれなりに自信があった。本人は無意識にやったようだったけれど、彼女は確かに頬を覆った湿布に触れた。
ここで質問を投げたらたぶん怒られる。怒られるというか、かなり居心地の悪い思いをすることになる。そんなこと容易に想像できた。だってもうこんなの明らかに地雷だ。ならやめようかと迷い、でも秋丸は自分の中の好奇心に負けた。
「その頬っぺた、どうしたんですか」
「なんでもいいでしょ! ぶつけたの!」
そこでムキになるのが逆効果なのだと知っているのかいないのか。姉弟そろって嘘と隠し事が下手だ。榛名と付き合っているとそんなところが扱いやすかったり不安になったりだったけれど、今は年上の人を相手にこう言ってはなんだが、かわいいなと感じた。素直でしかいられない不器用さが好ましいと思う。
「あの、もしかして榛名に?」
口に出した瞬間に不躾な発言をしたことを後悔した。親友といっていい仲の友人で、しかも彼女の弟だ。それが人を殴ったんじゃないかなんて話をして相手がいい思いをするわけがない。自分だって榛名が人を殴ったなんて状況は極力想像したくない。勘違いであったほうが良いし、そうあってほしかった。眉根を寄せたままの彼女が、怒気を含んだ声で「んなわけないでしょ!」と言うまでを、ある種切実な気持ちで待っていた。が、期待に反して、返ってきたのは深いため息だった。
「秋丸がおねーさんと最後に喧嘩したのっていつ」
「は?」
見返した先には驚くほど真剣な目が真っ黒い口をあけていた。
「最後っていうと覚えてないです。……口喧嘩なら、まあそれなりに今でもしますけど、でもいつも負けます」
そう言うと、相手は少しだけ笑ったようだった。
「クチじゃなくて、とっくみあいの喧嘩」
「えー…。それこそ覚えてないですよ。小学校の低学年くらいまではしてた気がしますけど、ウチは姉二人だし、ちょっと離れてるんで」
「そ」
実際、どこかのほほんとした雰囲気のある姉たちと秋丸の間に流れる空気はのんびりしたもので、記憶にある限り掴み合いになるような派手な姉弟喧嘩をした記憶はなかった。
「ウチは結構してた。よくしてた頃は、まだあたしの方が背もおっきかったから殴り合いの喧嘩してもほとんどあたしが勝ってたけど」
「……バイオレンスなご姉弟ですね」
「かもね」
榛名が殴り負かされているところなんか想像もつかない……と思いかけたが、目の奥をキラキラさせながら楽しそうに思い出話をする姿を見ていると、対姉戦に関してだけは例外だと思い直さざるをえなかった。自分だってとても勝てる気がしない。
「最後にそういう喧嘩したときのこと、あたしは結構しっかり覚えてる。あたしが中一の時、憧れてた先輩に彼女がいるってわかってさ。それでちょっと少女漫画っぽい気分に浸ってたくてごはんも食べないで部屋で泣いてたらあいつが来てね、で、ゆったの。『泣いたらもっとブスんなるだろ』とかなんとかって。こっちだってそんなの分かってたんだよね。でも初めての失恋気分だったから自分かわいそがって泣いてたいわけじゃない? だからスッゴイ頭きて、グーでぶん殴った。――で、叩き返してきたからそのまま掴み合って大喧嘩」
「それが最後?」
「うん。それが最後」
元希がバカなのはその時のせいかもね。そう言ってちらりと歯を見せる。つられてこちらも笑った。
「そんなんが最後だったから、昨日は久しぶりに手上げられた」
そのままさらりと暴露する。まるでなんでもないことみたいに。湿布が目に入っていなかったら秋丸だって聞き流してしまいそうなタイミングだった。
「あの、なんで……?」
「………あいつがあんまりバカだからよ。みんなに心配されてんのにいつまでも不機嫌オーラ振りまいて」
わかります、と言うのは傲慢な気がしたから何も言えなかった。でも少しだけわかることもあった。家での様子は知らなくても、学校では毎日顔を合わせている。手負いの獣の目をした榛名が誰も寄せ付けずにいることも、あれほど身近に置いてきた野球に関わるすべてのことを遠ざけようとしていることも知っている。それに榛名が、秋丸が今もなお在籍する野球部でどれだけ傷ついたのかを身近に見た。
「野球やめるって言い出したの、あいつ」
「……聞きました。榛名から」
入部のとき、はっきりと「将来はプロになります」と言いはなって皆の度肝を抜いたのと同じ口が、「オレ、野球やめるわ」と告げるのを秋丸は二日前信じられない気持ちで聞いた。ウソだろ?と冗談めかして聞き返そうにも、全身を針で固めて拒絶の空気をまとった今の榛名の前では軽口を言うこともこちらから話しかけることさえ難しい。
「だから『じゃあやめれば』っていったの。『野球だけが人生じゃないんだからいいんじゃない』て。『そんなハンパな態度でやってたんじゃ、どうせ続けてたってプロになんかなれっこないんだし』って」
待ち合わせ場所に少し遅れて来た人の右頬は真っ白な湿布で覆われていた。薄明かりの中でも鮮やかなそれを隠しもせず、そのままさっさと滑り台の前を横切って隣に腰を下ろす。その一連の動作はあまりにも当たり前の様子で行われたため、秋丸は湿布の下について一言も触れることができないまま、今来たとこなので、と定番の台詞をもごもごと口の中で呟くことしかできなかった。
「今日ブカツだったの?」
一息つく間もなく足元のスポーツバッグを差す。校名の入ったバッグは公園の明かりを受けててらてらと光っていた。これと全く同じものが彼女の家にもある。ただしそれはここ一月くらい一度として使われていないはずだ。
「あ、はい」
「ふーん。土曜なのに大変ね」
ま、あたしもそうだけど、と立て掛けたラケットケースを叩く。
「休みはないし。しかも夏も終わるって言うのにあっついったら」
独り言のように言い、まとわりつく熱気を払うように頭を振る。肩先でそろえられた髪がぱさぱさと音を立てて散るのと同時に、ふわりと淡く花の匂いがした。シャンプーの匂いだ。そう悟った瞬間に急に隣にいる人がよく知った友達の姉から見知らぬ年上の女性に代わったような気がして、そう思った自分にどきっとした。
「ええっと、榛名のことなんですけど」
一瞬感じた緊張の正体を知る努力はしないことにして(たぶんこれを知るにはまだ早い)無理やり話題を本題に移した。今日はそのことを話しに来たのだ。ただなんとなく会って話をするために、部活後の疲れた体で友達の姉を呼び出したりなんかしない。
「調べてみたら学校以外でも野球やれるとこはあるって。しかも、戸田まで行くと関東でもいい線いってる良いチームがあるみたいなんですよ。そこはシニアリーグって言って硬球のとこなんですけど、先のこと考えたら今から硬球でできるのって絶対あいつのためになるか――」
「元希なんか、野球やめちゃえばいいのよ」
「え」
「ばか元希っ」
吐き捨てるように秋丸の言葉を遮った人は、その続きを口にしようとはしなかった。ただ、スカートの上で組んだ指先をじっと見つめていた。
「――榛名となんかあったんですか?」
「……べつに」
秋丸はその時、弟に似た長い指が確かめるように頬に触れたのを見逃さなかった。弱小野球部でも捕手だ。洞察力にはそれなりに自信があった。本人は無意識にやったようだったけれど、彼女は確かに頬を覆った湿布に触れた。
ここで質問を投げたらたぶん怒られる。怒られるというか、かなり居心地の悪い思いをすることになる。そんなこと容易に想像できた。だってもうこんなの明らかに地雷だ。ならやめようかと迷い、でも秋丸は自分の中の好奇心に負けた。
「その頬っぺた、どうしたんですか」
「なんでもいいでしょ! ぶつけたの!」
そこでムキになるのが逆効果なのだと知っているのかいないのか。姉弟そろって嘘と隠し事が下手だ。榛名と付き合っているとそんなところが扱いやすかったり不安になったりだったけれど、今は年上の人を相手にこう言ってはなんだが、かわいいなと感じた。素直でしかいられない不器用さが好ましいと思う。
「あの、もしかして榛名に?」
口に出した瞬間に不躾な発言をしたことを後悔した。親友といっていい仲の友人で、しかも彼女の弟だ。それが人を殴ったんじゃないかなんて話をして相手がいい思いをするわけがない。自分だって榛名が人を殴ったなんて状況は極力想像したくない。勘違いであったほうが良いし、そうあってほしかった。眉根を寄せたままの彼女が、怒気を含んだ声で「んなわけないでしょ!」と言うまでを、ある種切実な気持ちで待っていた。が、期待に反して、返ってきたのは深いため息だった。
「秋丸がおねーさんと最後に喧嘩したのっていつ」
「は?」
見返した先には驚くほど真剣な目が真っ黒い口をあけていた。
「最後っていうと覚えてないです。……口喧嘩なら、まあそれなりに今でもしますけど、でもいつも負けます」
そう言うと、相手は少しだけ笑ったようだった。
「クチじゃなくて、とっくみあいの喧嘩」
「えー…。それこそ覚えてないですよ。小学校の低学年くらいまではしてた気がしますけど、ウチは姉二人だし、ちょっと離れてるんで」
「そ」
実際、どこかのほほんとした雰囲気のある姉たちと秋丸の間に流れる空気はのんびりしたもので、記憶にある限り掴み合いになるような派手な姉弟喧嘩をした記憶はなかった。
「ウチは結構してた。よくしてた頃は、まだあたしの方が背もおっきかったから殴り合いの喧嘩してもほとんどあたしが勝ってたけど」
「……バイオレンスなご姉弟ですね」
「かもね」
榛名が殴り負かされているところなんか想像もつかない……と思いかけたが、目の奥をキラキラさせながら楽しそうに思い出話をする姿を見ていると、対姉戦に関してだけは例外だと思い直さざるをえなかった。自分だってとても勝てる気がしない。
「最後にそういう喧嘩したときのこと、あたしは結構しっかり覚えてる。あたしが中一の時、憧れてた先輩に彼女がいるってわかってさ。それでちょっと少女漫画っぽい気分に浸ってたくてごはんも食べないで部屋で泣いてたらあいつが来てね、で、ゆったの。『泣いたらもっとブスんなるだろ』とかなんとかって。こっちだってそんなの分かってたんだよね。でも初めての失恋気分だったから自分かわいそがって泣いてたいわけじゃない? だからスッゴイ頭きて、グーでぶん殴った。――で、叩き返してきたからそのまま掴み合って大喧嘩」
「それが最後?」
「うん。それが最後」
元希がバカなのはその時のせいかもね。そう言ってちらりと歯を見せる。つられてこちらも笑った。
「そんなんが最後だったから、昨日は久しぶりに手上げられた」
そのままさらりと暴露する。まるでなんでもないことみたいに。湿布が目に入っていなかったら秋丸だって聞き流してしまいそうなタイミングだった。
「あの、なんで……?」
「………あいつがあんまりバカだからよ。みんなに心配されてんのにいつまでも不機嫌オーラ振りまいて」
わかります、と言うのは傲慢な気がしたから何も言えなかった。でも少しだけわかることもあった。家での様子は知らなくても、学校では毎日顔を合わせている。手負いの獣の目をした榛名が誰も寄せ付けずにいることも、あれほど身近に置いてきた野球に関わるすべてのことを遠ざけようとしていることも知っている。それに榛名が、秋丸が今もなお在籍する野球部でどれだけ傷ついたのかを身近に見た。
「野球やめるって言い出したの、あいつ」
「……聞きました。榛名から」
入部のとき、はっきりと「将来はプロになります」と言いはなって皆の度肝を抜いたのと同じ口が、「オレ、野球やめるわ」と告げるのを秋丸は二日前信じられない気持ちで聞いた。ウソだろ?と冗談めかして聞き返そうにも、全身を針で固めて拒絶の空気をまとった今の榛名の前では軽口を言うこともこちらから話しかけることさえ難しい。
「だから『じゃあやめれば』っていったの。『野球だけが人生じゃないんだからいいんじゃない』て。『そんなハンパな態度でやってたんじゃ、どうせ続けてたってプロになんかなれっこないんだし』って」
作品名:きれいなお姉さんは好きですか? 作家名:スガイ