きれいなお姉さんは好きですか?
「え、それは――」
本人じゃなくても、榛名の今までを知っている者からしたら聞き捨てならない台詞だと思った。榛名の球は確かに速い。まだろくに握り方も知らないときからスピードだけは無理することもなく乗ったというから、もともと才能と身体能力はあるんだと思う。でもそこにあぐらを掻いているだけでないことは、しばらく一緒にいればすぐにわかることだ。幼稚園児が話す将来の夢と同じレベルでプロ選手になると言っていたわけでは決してない。
「そしたら、次の瞬間ベッドまで吹っ飛んでた」
「は?」
「なんかねー、ちょっと笑えるんだけど、その瞬間って今まで言い合ってたのも忘れて二人ともぽかんとしちゃってんの。だって、そんな簡単に吹っ飛ぶなんて思わないじゃない? 最後に叩く叩かないって喧嘩なったのは確かにあいつがあたしより十センチくらいちっさいときだし、それからあいつは身長伸びてるけど、だからって今背そんな離れてないのよ? グーで殴ってってならわかるけど、平でほっぺた打たれたくらいでそんなって思うわけよ」
我に返るまでは全然痛くないのね。なんでもないことのように続ける。
「叩かれたんだってわかったのはウチのお父さんが血相変えて部屋に乗り込んできて元希のこと殴ってから」
「そりゃまたバイオレンスですね……」
「でしょ。月曜日元希と会うと痣ついてると思うから笑っといて」
あははと彼女は屈託なく笑ったが秋丸は全く笑えなかった。頬を包んだ湿布が切ないぐらいに眩しく白い。
「ぽかーんってしてる間、元希の方が目ぇまんまるにして泣きそうになってるのが見えてた」
バカなの、あいつ。そう言った声に隠し切れなく滲んだ揺らぎの気配。彼女の目に映った榛名の表情も、榛名の目に映った彼女の様子も、どちらも秋丸の想像には余る。
「『やめる』っていってるやつに『やめれば』っていって叩かれたこっちの方が泣きたいってのよね」
その時、隣をうかがい見てしまったことを秋丸はひどく後悔した。目にしなければ良かったと心から思った。そして同じくらい強く今見た光景をこのまま自分だけのものにしておきたいと願った。瞳に涙を浮かべ、それでもなお昂然と顔を上げた横顔は、水銀灯の光に縁取られてぞっとするぐらい綺麗だった。
もし秋丸がもっと子供だったら、その手を取って慰めることができたかもしれない。それかもう少し大人だったら――たとえばせめてこの人と同じ年だったなら、ほんの少しの間胸を貸してあげることができたのかもしれない。でも今の秋丸は彼女の弟と同じただの中学二年生でしかなく、そのどちらも選べずに横顔から目を離した。さり気なさを装えたのがせめてもの意地だ。
「膝のことならちゃんとやれば治るっていわれてんのに。チームの事だって、お父さんもお母さんも野球部に無理していることないし学外のとこ行くんだって自力でやるんだっていいからって、元希がやりたいように協力するっていってんのに。一人でくさってバッカみたい」
たぶんみんな同じもどかしさを抱えている。自分の欲求に嘘をつけない榛名が、めずらしく上手に隠しこんでいる本音を取り出せたらいいのに。夢を語るのではなく〝予定〟を語る真剣さで「プロになる」と言った後のバカみたいな笑顔を見たことがあるからそう思う。
「そんなこともわかんないならホントにやめちゃえばいいのよ」
こんな風に自分のことを話す人がいることを榛名は知ってるんだろうか。こうしてつながってるってこと知ってるんだろうか。何もかも奪い取られたと全身で叫び、伸ばされた手を叩き落す今の榛名にこの声は届いているか。
「あの」
これを口にしていいのは自分じゃないような気がする。こんなこと言わなくたっていいことだとも思う。でもちゃんと言葉にしておくのもいいと思った。たぶん絶対に自分じゃそうは言わない人の前で、言っておくのは悪くないことのように思えた。
「でも、オレ榛名が投げてるとこ見るの好きです」
虚を突かれた切れ長の眼がぽかんと丸くなった。そしてすぐに逸らされた。完璧な弧を描いて伏せられたまぶたの上に照れた色が見えた。見えた、気がした。
「なにそれ。あんた見る目無さすぎ」
「あはは」
一瞬後にはそんな様子を綺麗に隠して、睨みつけてきた親友と瓜二つの瞳の縁が乾いていたことに安堵して秋丸は空を仰いだ。
作品名:きれいなお姉さんは好きですか? 作家名:スガイ