逝く夏の
大体のランクだとか学部だとか、そういった大まかな方向はぼんやりとしていても「志望校」と訊かれたら迷う。中学は問答無用で決まったし、高校は野球部で選んだ。場所も、することも、無限に近い可能性の前に初めて立たされた戸惑いがある。
「まあ、決まったら教えてやれば。おバカなあいつのために」
「あいつのため? なんで?」
「なんでって、あいつ準太と追っかけてくんだろ。早めに目標定めて勉強しようなんてケナゲじゃん」
また和さんと野球やりたいっつってさ。からかう口調で、でもその言葉の内容には一ミリだって疑問を抱かずに慎吾は言う。モテる男はつらいな、なんて軽口を叩きながら。
しかし和己は軽く目を見開いた。心底意外そうな表情でゆっくりと瞬いた。
「それはないだろ」
「え?」
今度は慎吾が目を見開く番だった。
「なんで? あいつが聞くって事はそーいうことじゃねーの」
後輩達が――とりわけ準太と利央の二人が、和己を慕って、一緒にプレイしたがっているのかを知っている。それはこれからも当然継続される、当たり前のことに思えた。
「なんでって――だってさ」
唇の端が慎吾にだけが気づく微かさで下がる。
「違うだろ」
「違う?」
「うん」
和己はほんの一瞬だけ言いよどんだ。だが、それだけだった。
「高校までならまだしも、大学はそういうのとは、違うだろ」
「――……は」
その瞬間、なぜ自分がそんなに衝撃を受けたのか慎吾にはわからなかった。せめてそこからヒントを読み取るかのように和己の顔を凝視する。汗が一筋こめかみを流れていった。蝉が痛いくらい煩い。日向を見つめる和己の横顔からは表情が読み取れなかった。
「あいつらだって将来とか考えるんだろうし」
もう、野球だけがモノサシじゃなくなるだろ。
ぽつんと言われたその時、慎吾は唐突に今までの野球は終わったのだという事実に胸を掴まれた。一週間前までは確かにあった“桐青高校野球部”はもう二度と戻らないのだという実感に頬を叩かれたような気がした。そんなこと、とうに知っていたけれど、知らなかった。例え自分が野球から離れても、和己とあの後輩たちのいる景色は地続きにまだ繋がっている気がしていた。永遠に変わらない箱庭みたいに。
「――あー。……なんかショック」
「? なんだ?」
野球だけ考えていればよかった。野球をやるために集まってきた、そんなヤツらばかりに囲まれてやっていられた野球は終わってしまったのだ。戻る気はなかったけれど、振り返ればいつでもどこか変わらない場所があると思っていた自分に気づいて驚いた。
満足したと思っていた。やりきった、とそんなつもりでいた。
「……ショックを受けた自分にショックだ」
後悔なんか、死ぬほどあった。でも精一杯やった。それだって本当のことだった。やりきったから。出し切ったから。頑張ったから。もう自分の三年間はすっかり整理して託したつもりでいた。
――でもこれはなんだ。
今になって、この、どうしようもない喪失感。
(もう二度と)
吐くまであのグラウンドを駆け回ることは無い。鬼監督の罵詈雑言を浴びることも無い。校章をでかでかとまとった遠征用のマイクロバスの中で爆睡することも、山ちゃんとパピコを半分ずつくわえた帰り道も、半寝の体を引きずって乗り切る朝練も。
(なくなったんだな)
この先なにがあったとしても――たとえば、全く同じメンバーが全員ごっそり同じ大学に入って野球部に所属することになるなんてミラクルがあったとしても、決して再現できないレベルで何かが決定的に動いてしまった。グラウンドへ行けば、練習に参加することくらいはできるだろう。自主練として一緒にメニューをこなすこともできるだろう。でも、それは違うのだ。いつもと同じグラウンドでも。今までの馴染みのメンバーでも。同級生が一人欠けている。二人欠けている。主導権が後輩に移っている。公式戦にはもう出ない。休んだところで叱られない。そういう様々なことが一つ一つもう致命的に違ってしまっている。喪失とは、引退とは、そういうことだった。
「……和、お前老けてるのは顔だけじゃなかったんだな」
「なんでそういう結論になるんだよ……」
「そうなんだからしょうがねぇだろ」
理不尽とわかっていながら押しつけて、背中から倒れこむ。思い切り体重を掛けられた和己は笑い混じりに暑いぞ、とだけ言って、でも押し返すことはしなかった。
「クッソ……」
日差しが目に入って眩しい。目を閉じても瞼の裏側が光を含んだように明るい。太陽は、腹立たしいほど目に痛い。
「……暑ィよ、和己ー」
「くっついてるからだろ」
「そーだけどー」
「……そろそろ戻るか」
「おー。――でも、あと1分」
あんまり痛くて、痛すぎて、このまま泣いてしまいそうだと思った。