リョコウバトに巣はいらない
軍用のレーションをかじり、金属製のマグでイギリスは持参のやっぱり軍用のティーバッグ、俺はインスタントコーヒーを飲んだ。
「スコーンを持ち込めたら良かったんだけどな」
「うちの動植物を、匂いだけで絶滅させないためだからね」
「言ってみただけだ、ばか」
呪いをかけるような歌を鼻歌で鳴らそうとするイギリスを引きとめて、ハンバーガーもシェークもポテトもマシュマロもチョコレートもないけれど、あったかい物は少しだけ、心が落ち着く。
湖は、夜の風に吹かれさざ波が立った。黄色い小さな花は、夜になって頭を垂れていた。明日も咲いているかどうかはわからないけれど、多分来年はまた咲く。
そうやって景色を眺めると、会話が途切れてしまう。同じように湖を見ていたイギリスは、そっちとマグと俺とを交互に見やった後、ようやく口を開いた。
「アメリカ」
「何だい」
「靴、脱いで見せろ」
「嫌だね」
「やっぱりそう言うと思った。だからずっと言わなかったけど、言っておくけどお前のためじゃないんだからな。同行者の俺の責任問題とかあるから、俺のためであって……」
ここで、見せなかったら、このままくどくど説教が始まるなら、せっかくのキャンプが台無しだ。しょうがないので俺は自慢のスニーカーを出した。靴下もつま先から引っ張って脱いでしまって、地面に投げた。
土の感触が指にくっつく。裸足でビーチならともかく、土の地面に立つなんて百年ぶりくらいかもしれない。
「……やっぱり火傷になってら」
俺としては、デッドストックのプレミアがついてもおかしくない靴が、まあ売るつもりもないので、このくらいの変化は気にしない方向には気を向けられるものの、でろでろになったことのが悔しいんだぞ。
でも、イギリスは自分が怪我したみたいに、目に涙をため始めて。
おかしいな。まだ、彼は一滴も今日は呑んでないはずだっていうのに。
空気に含まれるわずかな硫黄臭で、パブったんだろうか。いやそんな馬鹿な。
「大したことないよ」
「薬やるから塗っておけ」
「やーなこった」
大体、どんな薬だか知れたもんじゃない。涙で俺に訴えるんなんて、そんなんじゃ、ヒーローはほだされないんだぞ。
イギリスは、湖よりも揺れる緑の目で、俺の脚を見た。
ひ、ヒーローはほだされないんだぞ。
イギリスは、洪水するかもってぐらいの涙を浮かべて、俺の足まで水がかかるかってくらい……。
薬草臭い塗り薬を足に適当に撫でつけている俺に、紅茶を入れなおしたイギリスが、ケトルから入れてきた。だから、その味、よくわかんなくて嫌なんだってば。でも、もうインスタントコーヒーの粉は切れてしまったから、仕方ない。
「何で、間欠泉で死んでたオオカミを拾った。しかも、特に墓を作るわけでもなし」
「埋めたら、他の動物が食べられないじゃないか」
「あそこが熱いってこと、お前はわかってただろう。俺たちだって痛点くらいはあるのに」
「君が役にも立たない貴族院を、討論の場として残しているのと同じような理由さ」
そうして、いつの間にミルクと砂糖が入っている紅茶をすすった。俺が昔好んだ味。今も嫌いじゃないけれど、イギリスの前では、自分から飲みたいとは言えない味。
黒い毛皮はすでに変色していた。
俺は、走り込んでこぼれ球を狙うライスボウルの選手の如く、塊を拾い上げた。地面の微細な揺れが一瞬おこり、白い粉が爆発するように空へ噴く。
テキサスが曇ったが、夢中で走った。
そのまま、森の中に地熱の分だけ、わずかに温まっていた塊を捨てた。荷物よりも軽い。これが、魂のない重さかもしれない。
イギリスは何も言わなかった。
黙ってしまったイギリスは、湖にひたしたハンカチを俺の足に乗せた。食べ物のかすが付くわけではないので、このぐらいの水利用は許されるだろう。
「イギリスだって、あの場所ですぐ俺に駆け寄って、おろおろするかと思ったけど、少しはマシになったんじゃないかい」
「お前は昔から、どんなに動物と仲良くなっても墓を作らない子どもだったから、ようやく理由を聞けたってだけだ」
「それが自然だからさ。ここでは、山火事が起きても消火はしないんだぞ。そこから新しく芽吹くことでここは何千年も活動してきたから」
やさしくない公園と対比するかのような味を、誰よりも厳しい人が作り出す不思議が、この空間には満ちている。
火傷の痛みは、薬が効いたのか、外気で冷えたからか、少し和らいだ。
「アメリカ」
「ん」
「お前、大人になったな」
「いきなり何だい」
「前だったら、俺をこんな昔を思い出させるような辺境の地に連れてこなかっただろ。俺の前で、昔みたく野性動物に触ったりしなかっただろ。素直に紅茶を飲んだりしなかっただろうし……」
「それって何だか、子どもっぽいて言われているみたいだぞ」
「子どもらしい振る舞いに抵抗がなくなるのが大人の証拠だばか」
なるほど、だからイギリスは、大人げないのか。言われてみれば、日本も中国もフランスも、年寄り連中は総じて大人げない。
大人か。
他でもないイギリスに言われるのは、くすぐったい。
言われてみれば、アイスを食べてないのに今日はくしゃみが起こらないし、ゲームをする気も、ホラーDVDを見る気も起らない。
生まれた頃ずっと見ていたのと同じ空、同じことしかできないくらいの非文明的な世界。
それなら、ここでしかできないことを体験するしかないのだ。
「俺はただ……」
それは、ほんの少しだけ本音を漏らすこと。誰もいないことをいいことに。
ヒーローは観客がいるからヒーロー足らしめんとする。
なら、観客がいない今、少し痛む足を休めてもいいかもしれない。だってここには、一人称たる俺と、二人称たる君しかいないんだから。
それでも、言葉に出すのは、うっかり足だけじゃなくて別の部分も火傷しているんじゃないかってほど、火照った。日が早くなっていて良かった。こんな顔色、イギリスには見せられない。
「ただ、君と朝日が見たいなと思っただけだよ」
いつも早く寝てしまって、朝起きたらいなくなっていた君。
独立後、いなくなってしまって毎朝会えなくなった君。
俺を大人になったと評したことを撤回させるものか、大人げない大人な君に近づけさせたのは、ほかならぬ君なのだから。
星がまわって、君がほほ笑んで、少しだけ近づく。
fin
作品名:リョコウバトに巣はいらない 作家名:かつみあおい