非日常の幸福
短い髪が風に揺れていた。
二月も半ばに差し掛かる頃、風もまだ冷たいのだが、彼はこうして風に当たっているのが好きだった。
身を切るような寒さも、それが逆に自分の体温を感じることが出来るのだ。
自分はここにいる、と感じられるのだ。
……非日常の幸福……
屋上は、並盛中の中でも雲雀の特に好きな場所だ。
ここにくれば、並盛の全てが……彼の愛する全てが見下ろせる。
「………」
放課後の並盛中は生徒たちの活気ある声で彩られている。
グラウンドからは絶えず運動部の掛け声が、部室棟からも華やかな声が聞こえている。
その声を子守唄に、昼寝をするのが雲雀の日課でもあるのだが、今日はそうもいかないようだ。
ちら、と雲雀が自らの横に山積みになっているものを見た。
毎年、この時期になると自分の下駄箱の中といわず外といわずこのようなラッピングされたもので一杯になる。
下駄箱だけではない。ロッカー、机の引き出しに至るまで、一杯になっているのだ。
貰い物であるから、粗末には出来ない。
だが………
「チョコのくせに……こんなに群れて」
山の一番上にある、赤いリボンでデコレーションしてある黒い箱を、人差し指で弾く。
ころ、とその小さい箱が山から崩れ落ちた。
雲雀は、興味が無いのかすぐにまた瞳を閉じた。
ころころと屋上を転がり、黒い箱は何かに当たって止まった。
「……おやおや」
手袋をはめた手が、その箱をそっと手に取った。
クフ、というかすかな笑い声が風に乗って雲雀の耳に届く。
「バレンタイン・デーのチョコレート、……ですか」
「………」
明らかに並盛の制服ではないものを着ている彼を、雲雀は一瞥し、しかし得意のトンファーを取り出すことはなかった。
放課後にこうして彼がふらっと現れることは珍しいことではない。
だが、狙ったようにこの時期に来るというのが気に入らなくて、雲雀は眉を寄せた。
今すぐ咬み殺してやりたいところだが、チョコの山を眺める彼の目が余りにも楽しそうであることに気付く。雲雀は力を抜いた。咬み殺すことはいつでも出来るが、年相応に輝く彼の双眸を見るのは嫌いではなかった。今は、その瞳を見ていたい。
「あ、これは僕も食べたことがありますよ。少々値は張りますが、その値段に見合った味と言えるでしょうね。……あっ、これはベルギー産のカカオで作ってあるやつですよ。ここのメーカーのチョコは、生クリームとの配合が絶妙で好きなんですよね」
「ねえ」
「うーん…量産性のチョコはあまり好きではありませんね…。最近は、そんなことも言っていられませんが…」
「……ねえ」
「クフフ……、これは手作りでしょうね。LOVEと書いて……はい? 何ですか?」
しゃがみこんでチョコの山を探る骸に、雲雀は苛々とした視線を投げた。
何しろ、その山は全て雲雀の所有物であるはずなのに、骸は手に取ったもの全てのラッピングを勝手に解いて中身を確認しているのだ。
「何やってるの、君」
不機嫌な声を聞いても、骸は動じた風もなく、雲雀の方を振り向くこともなかった。
「……それ、僕のなんだけど」
「そのようですね」
言いながら、骸は更に封を開けて行く。赤や黄色や青のリボンが、様々な柄がプリントされた包装紙が、しゃがみこむ骸の周りに渦を巻くように増殖していく。
鼻歌が聞こえてきそうなくらい、骸の様子は楽しそうだった。
しかし、何故だか雲雀の気分はどんどん下降していく。
「…………ねえ」
「何ですか、あなたはさっきか……」
言葉が驚きで止まる。
やっと振り向いた骸の目の前に、思いがけなく近い雲雀の顔があった。
長い前髪の奥、綺麗なオッドアイを目にして雲雀の目が眇められた。
「やっと、僕の方を向いたね」
言いながら、雲雀は骸の顔を覆う前髪を横へ梳いた。
雲雀は、深い青に彩られた左目よりも、なぜか怪しく輝く右目の方が好きだった。背筋にぞくりと震えが走る程に……それは美しいのだ。
「何ですか、チョコなんかに妬いたんですか?」
「まさか」
そのまさかだということは、口が裂けても言えない。
誤魔化すように骸の頬を優しく撫でれば、骸はくすぐったそうに笑った。
「……今日のあなたは少し可笑しいですよ」
「そう? ……だとしたら、君のせいだよ」
ぐいっ、と雲雀の顔が骸に近づく。
吐息すら感じそうな程に近い所で、雲雀はふっと微笑んだ。
「Io voglio che Lei mi di a cioccolato」
雲雀の口からゆっくりとイタリア語が紡ぎ出される。
発音は上手くなかったが、それでも骸にはその意味するところは伝わったようだ。
「……練習、したんですか?」
「……ふん」
図星をつかれて、雲雀は視線を逸らした。
「クフフ……嬉しいじゃないですか」
「うるさいな。……で、どうなの」
少し恥じ入りながら雲雀が訪ねると、ついに骸は吹き出した。
屋上に、骸の笑い声が響く。雲雀は眉を顰めた。
「何を笑ってるのさ」
「クハハ…ッ…、いえいえ、すみません……クフッ、いや、あなたが…まさかそんなことを言うなんて思いませんでしたから」
「………」
流石に、直球すぎたか、と雲雀が後悔する。
最近日伊辞書を暇つぶしにめくっていることを、雲雀は誰にも知られたくなかった。
しかし、雲雀に知らない言語の遠回しな表現など知るはずもなく。
「もういいよ…、それ以上笑うと咬み殺すよ?」
なんだか、バカらしくなって雲雀は骸から離れた。もちろん、愛用の武器の位置は確かめている。
「ああ、すみませんでした。もう笑いませんよ」
慌てて笑いを止めると、去る雲雀の服の袖を、くい、と引っ張る。
「Io voglio dare questo cioccolato al mio caro」
こちらにも分かるように、ゆっくりと単語の間を空けてくれたが、それでも雲雀にはちんぷんかんぷんだった。
けれど、自分の言葉に対する返答だとは思う。その意味が分からないのは少し悔しかった。
「何を」
「考えてくださいよ」
楽しそうな笑みで返されて、雲雀は黙った。
Ioは私は。Voglioは英語で言うwant。Dareはgiveだ。
Alは分からないが、mio caroは……愛しい人。
「questo……って何?」
「この、ですよ。英語で言うthis。……分かりましたか?」
分かった。
雲雀は、自分でも気付かないうちに口角を上げていた。
「ふぅん……」
骸を一瞥する。
その意味ありげな視線に気付いたのか、骸が頬を朱に染めた。
「ま、まあ……、そういうことですから」
そう言って、骸はゆっくりと懐から小さな箱を取り出す。
ラッピングはされていない、小さな青い箱だ。
「何なの」
分かってはいたが、からかいたくなって、雲雀は問うてみた。案の定、骸が更に赤くなる。
「これを、あなたに、と……分かっているのに、酷い人ですね、あなたは」
差し出してきた箱を受け取って、雲雀は瞳を閉じる。
「も、でしょ? 勘違いしないでよね」
「おや、自分は認めるのですか?」
「…………」
「どうしたんです?」
作品名:非日常の幸福 作家名:Kataru.(かたる)