名の意味を知る
名前なんてただの記号だ。
俺の猿飛佐助という名だって、通名に過ぎない。
なのに、あの主は嬉しそうに呼ぶのだ。記号に過ぎないこの名前を。
佐助、と。嬉しそうに楽しそうに弾むように。
それがなぜなのか、あの頃の俺には理解できなかった。
「佐助!」
・・・まただ。主が呼んでいる。
主に仕える忍としては、名を呼ばれたらすぐさま馳せ参じねばならない。そういう意味では名とは犬の首につける鎖と同じだ。
「はいはい、猿飛佐助只今参りましたー」
元服間近のこの主、弁丸。体は平均より少し小さめ、おつむの方はちょっと心配になる程度、反射神経というか野生の勘というか、そっちの方は忍の俺様が少しばかり感心するほどのもの。
主はそんなお方だ。
主の野生の勘ってものはなかなか馬鹿にできない。昔ひとつ試しに、と気配を完璧に消して隠れてみたことがあった。主はその後にそれを「かくれんぼか」と笑ってみせたが、そうだとするなら結果は俺の惨敗だろう。
木の上だろうが屋根の上だろうが天井裏だろうが、主は俺の姿を求めて全て見つけてみせたのだ。ときには忍隊の力を使ってまで。
それでも最後に見つけて、名を呼んで笑うのはいつだって主だった。
『見つけたぞ、佐助!』
と。とてもとても、嬉しそうに。
反対に俺はとんでもなく落ち込んだものだが(だって俺は忍だ。忍べない忍に意味があるものか)、主が忍隊の力を借りていること、見つけ方が全くの勘であることを知った日からは、そんなに落ち込むことはなくなった。ああ、主はそういうお方なのだ、と。所謂開き直りだ。
幼い頃から動物的というか野生的というか、そんなところがあった主だから、当然普通の常識は通じない。すなわち先のような、
「呼んだー?旦那」
忍にあるまじき口調が許されるところ、とか。
「おお、来たか。いつものことだが素早いものだ」
「当たり前じゃん。俺様忍よ?」
それが仕事だっつの、との悪態は胸のうちに留める。言っていいこと悪いこと、子供でもわかる。
もうひとつ、この主に通じない常識がある。まあそもそもが主は非常識の固まりなわけだが、これはその中でも戸惑うものだった。
それは、“忍を人として扱う”こと。
“忍は道具”という常識を真っ向から蹴って、跳ね飛ばして踏み付けるのだ。この主は。
その象徴の最もたるものが、名前。
主は部下になった者に最初に名を問う。ひとしきり戸惑わせたあと、結局名と顔を晒させるのだ。忍が顔を晒すという意味をわかっていらっしゃらないらしい。
とまあこんな感じで、主に対する苛々は溜まる一方だった。
「で、旦那。なんか用?」
昔は相応の言葉遣いだったものを、自然体にせよとの再三のご命令で素にしたのは三年ほど前。
まだ成長期に入る前で小さかった主は、これだけは譲れないとばかりに出会った日からしつこくその命令を繰り返した。そして根負けしたのが、俺。それでも7年近くもったのだから頑張った方だろう。
「この前の書物だ。どこに仕舞った?」
主は意外にも知識を吸収することがお好きだ。しかし記憶力が悪いのか二度と取り出せない場所に吸い取られてしまうのか、その知識が役立つことはあまりないのだが。
「そこの棚の中。片付けもしないでうたた寝なんてさあ、もう元服も近いんだからやめてよね?」
「ああ、ここか。すまぬな」
棚から目当てのものを見つけだすと、机にも向かわずにその場で紙をめくり始めた。聞いちゃいねえ。
内心で舌打ちをする。じゃー失礼します、とおざなりな辞去の挨拶をして背を向けた。
と。そのとき。
「佐助」
主が、常にない静かさで己の名を呼んだ。
「はいはい、なんですか?」
その意味を考えず、朗らかな笑みを取り繕って向き直る。
主の瞳と視線がかちあった。
生真面目なこの主の見慣れているはずの、真剣な、真摯な瞳と。
「・・・なんですか?」
笑みを貼付けたまま、もう一度問う。
きっとそれがいけなかったのだろう。
いつのまにか畳に投げ出されていた書物を放って、主はすっくと立ち上がった。
先の声と同じように、静かに近付いてくる。
そして、目と鼻の先の位置で立ち止まった。
「・・・なんです、か?」
圧倒される。
己より背丈の低い、若い主に。
これが、真田の。
六文銭を背負う者の気なのか。
「佐助」
名を呼びながら、おもむろに主に手を取られた。
「っ―――」
思わず振り払ってしまう。ぱしっと乾いた音を立てた手は、片方はそのまま固まり、片方は大した執着もなく下ろされた。
「っも、申し訳ありませ」
「佐助」
口をついて出た謝罪の言葉を遮って。
「まだ怖いか」
主が初めて、己の名以外の言葉を発した。
「・・・こわ、い?」
意味がわからず問い返す。さぞ間抜けな顔になっていることだろう。
けれどすぐに気を持ち直して、呆れたように笑ってみせた。
「いきなり何よ、怖いって。旦那が怖いかって聞いてんの?あは、なんで忍が主を怖がんの―――」
「違う」
主の言葉はひとつひとつが鋭い刃のようだ。己の何もかもを一刀両断していく。
「おまえ、自分の名を呼ばれることが怖いだろう」
今度こそ固まった。
それでも懸命に、口と頭だけは動かす。
「な、に、言ってんの。なんで自分の名前呼ばれんのに怖がらなきゃいけないわけ」
「知らぬ。そう感じただけだ」
それだけを言葉にするのに一苦労だったというのに、主はしれっとそう言い放った。
そしてまた、一太刀を入れる。
「だがおまえは名を呼ばれる度に気配を動かす。嫌そうに顔を顰める」
そんなまさか。
忍の己が気配を隠し切れなかった?それだけならまだしも表情まで動いていたと?・・・それを、主に気付かれていた?
この、主に―――?
「そんな気がする」
思わず滑った。
内心混乱やら驚愕やらでてんやわんやだったというのに、主は“気がする”の一言で断じてみせた。やはり主の根本は野生的な何かなのか。
しかし。
主のその言葉は問題だ。大問題だ。なぜなら―――、
それは、事実だから。
“怖い”云々は一先ず置いておいて、名を呼ばれることが嫌なのは紛うことなき事実だ。何故だかはわからないが、嫌悪感だけが先に立つ。
それが無意識のうちに表に出ていたというのか。忍失格だろう、感情を表に出して、それを主に悟られるなど。
だから。
「―――やだなあ、そんなわけないっしょ」
そんな不名誉を背負うくらいなら、すっとぼける方を選ぶ。
「確かにそうかも知れないけどさ、それは呼ばれ慣れないだけ。怖いとか嫌とか、そんなわけないじゃん」
へらへらと笑ってみせたら、主は一瞬睨むように目を細めた。
そのまま無言なのをいいことに、礼を失するとはわかりながらも何も言わずに踵を返す。
5歩ほど歩いたところで、背後から主の声が追いかけてきた。
「佐助」
ぴたり、と足を止める。
「―――しつこいよ、旦那」
「佐助」
「しつこいってば」
声が段々近付いてくる。それと共に、忍にあるまじき苛々とした感情も沸々とわいて来た。
「さす―――」
「しつけえっての!!」
俺の猿飛佐助という名だって、通名に過ぎない。
なのに、あの主は嬉しそうに呼ぶのだ。記号に過ぎないこの名前を。
佐助、と。嬉しそうに楽しそうに弾むように。
それがなぜなのか、あの頃の俺には理解できなかった。
「佐助!」
・・・まただ。主が呼んでいる。
主に仕える忍としては、名を呼ばれたらすぐさま馳せ参じねばならない。そういう意味では名とは犬の首につける鎖と同じだ。
「はいはい、猿飛佐助只今参りましたー」
元服間近のこの主、弁丸。体は平均より少し小さめ、おつむの方はちょっと心配になる程度、反射神経というか野生の勘というか、そっちの方は忍の俺様が少しばかり感心するほどのもの。
主はそんなお方だ。
主の野生の勘ってものはなかなか馬鹿にできない。昔ひとつ試しに、と気配を完璧に消して隠れてみたことがあった。主はその後にそれを「かくれんぼか」と笑ってみせたが、そうだとするなら結果は俺の惨敗だろう。
木の上だろうが屋根の上だろうが天井裏だろうが、主は俺の姿を求めて全て見つけてみせたのだ。ときには忍隊の力を使ってまで。
それでも最後に見つけて、名を呼んで笑うのはいつだって主だった。
『見つけたぞ、佐助!』
と。とてもとても、嬉しそうに。
反対に俺はとんでもなく落ち込んだものだが(だって俺は忍だ。忍べない忍に意味があるものか)、主が忍隊の力を借りていること、見つけ方が全くの勘であることを知った日からは、そんなに落ち込むことはなくなった。ああ、主はそういうお方なのだ、と。所謂開き直りだ。
幼い頃から動物的というか野生的というか、そんなところがあった主だから、当然普通の常識は通じない。すなわち先のような、
「呼んだー?旦那」
忍にあるまじき口調が許されるところ、とか。
「おお、来たか。いつものことだが素早いものだ」
「当たり前じゃん。俺様忍よ?」
それが仕事だっつの、との悪態は胸のうちに留める。言っていいこと悪いこと、子供でもわかる。
もうひとつ、この主に通じない常識がある。まあそもそもが主は非常識の固まりなわけだが、これはその中でも戸惑うものだった。
それは、“忍を人として扱う”こと。
“忍は道具”という常識を真っ向から蹴って、跳ね飛ばして踏み付けるのだ。この主は。
その象徴の最もたるものが、名前。
主は部下になった者に最初に名を問う。ひとしきり戸惑わせたあと、結局名と顔を晒させるのだ。忍が顔を晒すという意味をわかっていらっしゃらないらしい。
とまあこんな感じで、主に対する苛々は溜まる一方だった。
「で、旦那。なんか用?」
昔は相応の言葉遣いだったものを、自然体にせよとの再三のご命令で素にしたのは三年ほど前。
まだ成長期に入る前で小さかった主は、これだけは譲れないとばかりに出会った日からしつこくその命令を繰り返した。そして根負けしたのが、俺。それでも7年近くもったのだから頑張った方だろう。
「この前の書物だ。どこに仕舞った?」
主は意外にも知識を吸収することがお好きだ。しかし記憶力が悪いのか二度と取り出せない場所に吸い取られてしまうのか、その知識が役立つことはあまりないのだが。
「そこの棚の中。片付けもしないでうたた寝なんてさあ、もう元服も近いんだからやめてよね?」
「ああ、ここか。すまぬな」
棚から目当てのものを見つけだすと、机にも向かわずにその場で紙をめくり始めた。聞いちゃいねえ。
内心で舌打ちをする。じゃー失礼します、とおざなりな辞去の挨拶をして背を向けた。
と。そのとき。
「佐助」
主が、常にない静かさで己の名を呼んだ。
「はいはい、なんですか?」
その意味を考えず、朗らかな笑みを取り繕って向き直る。
主の瞳と視線がかちあった。
生真面目なこの主の見慣れているはずの、真剣な、真摯な瞳と。
「・・・なんですか?」
笑みを貼付けたまま、もう一度問う。
きっとそれがいけなかったのだろう。
いつのまにか畳に投げ出されていた書物を放って、主はすっくと立ち上がった。
先の声と同じように、静かに近付いてくる。
そして、目と鼻の先の位置で立ち止まった。
「・・・なんです、か?」
圧倒される。
己より背丈の低い、若い主に。
これが、真田の。
六文銭を背負う者の気なのか。
「佐助」
名を呼びながら、おもむろに主に手を取られた。
「っ―――」
思わず振り払ってしまう。ぱしっと乾いた音を立てた手は、片方はそのまま固まり、片方は大した執着もなく下ろされた。
「っも、申し訳ありませ」
「佐助」
口をついて出た謝罪の言葉を遮って。
「まだ怖いか」
主が初めて、己の名以外の言葉を発した。
「・・・こわ、い?」
意味がわからず問い返す。さぞ間抜けな顔になっていることだろう。
けれどすぐに気を持ち直して、呆れたように笑ってみせた。
「いきなり何よ、怖いって。旦那が怖いかって聞いてんの?あは、なんで忍が主を怖がんの―――」
「違う」
主の言葉はひとつひとつが鋭い刃のようだ。己の何もかもを一刀両断していく。
「おまえ、自分の名を呼ばれることが怖いだろう」
今度こそ固まった。
それでも懸命に、口と頭だけは動かす。
「な、に、言ってんの。なんで自分の名前呼ばれんのに怖がらなきゃいけないわけ」
「知らぬ。そう感じただけだ」
それだけを言葉にするのに一苦労だったというのに、主はしれっとそう言い放った。
そしてまた、一太刀を入れる。
「だがおまえは名を呼ばれる度に気配を動かす。嫌そうに顔を顰める」
そんなまさか。
忍の己が気配を隠し切れなかった?それだけならまだしも表情まで動いていたと?・・・それを、主に気付かれていた?
この、主に―――?
「そんな気がする」
思わず滑った。
内心混乱やら驚愕やらでてんやわんやだったというのに、主は“気がする”の一言で断じてみせた。やはり主の根本は野生的な何かなのか。
しかし。
主のその言葉は問題だ。大問題だ。なぜなら―――、
それは、事実だから。
“怖い”云々は一先ず置いておいて、名を呼ばれることが嫌なのは紛うことなき事実だ。何故だかはわからないが、嫌悪感だけが先に立つ。
それが無意識のうちに表に出ていたというのか。忍失格だろう、感情を表に出して、それを主に悟られるなど。
だから。
「―――やだなあ、そんなわけないっしょ」
そんな不名誉を背負うくらいなら、すっとぼける方を選ぶ。
「確かにそうかも知れないけどさ、それは呼ばれ慣れないだけ。怖いとか嫌とか、そんなわけないじゃん」
へらへらと笑ってみせたら、主は一瞬睨むように目を細めた。
そのまま無言なのをいいことに、礼を失するとはわかりながらも何も言わずに踵を返す。
5歩ほど歩いたところで、背後から主の声が追いかけてきた。
「佐助」
ぴたり、と足を止める。
「―――しつこいよ、旦那」
「佐助」
「しつこいってば」
声が段々近付いてくる。それと共に、忍にあるまじき苛々とした感情も沸々とわいて来た。
「さす―――」
「しつけえっての!!」