かつてと今とこれからと
ふと、沙樹の手首を強く握り締めていた正臣の手が緩んだ。ただ離れる事は無く、そのまま正臣は沙樹の手のひらを包み込んだ。
その動作を不思議に思い、沙樹は俯きがちだった視線を正臣へと向ける。そこには泣きも怒りも出来ず、感情を持て余した少年の顔があった。
「家族が…増える事は嬉しい。でもまだ今じゃ臨也さんに頼りっぱなしになる。そんなのは嫌だ、苦痛だ」
「正臣は相変わらず言動と行動がバラバラだわ」
「んなの自分が一番知ってるし…でも」
正臣が、一呼吸の間をおく。
「臨也さんに頼るくらいなら、バイトを増やす。でもその金は……おろす為なんかには使わない」
「……」
「俺はまだこんなんだから、自分が頼りない事なんて一番自分が分かってる。だから不安だ。この先自分がどうなるかなんてビジョンは全く見えない。でも、」
また言葉が途切れる。それは一瞬にも永きにも感じ取れる様で、張り詰める緊張が、空気と連動している様だと錯覚するほどだった。
「沙樹と、俺との子供なら頑張れるから、だからっ…」
確かに口は動いていた。ただそれは音にはならず、最後まで沙樹の耳に届く事は無かった。
「……震えてるね。ごめんね」
「震えてなんか」
「ビックリしたんでしょ?大丈夫、冗談だから」
「そんな冗談…………はぁっ!?」
驚く正臣とは正反対に、沙樹は今にも笑い出しそうだ。
「ふふっ、ごめんね。どういう反応するか見てみたかったの」
「冗談にも限度があるだろ!?」
「うん、だからごめんね。…知りたかったの」
「なにをっ」
正臣はここが安アパートだという事を忘れたかのようにどかどかと足音をたて、先ほどまで自分がいた場所にどかりと座り茶染みをふき取る作業を再開する。とはいえ既に薄らと畳が吸い込んだ痕が残っているだけだった。時が経ち薄れ行くのを待つしかないようだ。
ちっと小さく舌打ちをして握り締めていたティッシュの塊をゴミ箱へ勢い良く放る。ただしそれは元の軽さゆえさほどの飛距離をもてず、ゴミ箱手前に音も立てずにふわりころりと落ちた。
それを沙樹が拾い上げ、ゴミ箱へ放り直す。
「私、このままここに居てもいいのかなってたまに思うの」
ティッシュの塊がいくつか転がるゴミ箱の底を見つめたままま、ポツリと沙樹が呟いた。その呟きに背を向けていた正臣が沙樹へ顔だけ向ける。
「…なんでそんな事」
「こうやって正臣の帰りをここで待って、ご飯作って一緒に食べて、たまに仕事先へ着いて行ったりして。私はただそれだけなの。そういうのは正臣の重荷にならない?正臣が疲れた顔して帰ってきたりすると不安になったりするの。私じゃ正臣の力になれてないんじゃないかなって。せめて私も何かアルバイトしようかなとかちょっと思ったりとか…」
「別に、不満とか負担とかそんなもの感じない」
「嘘」
「嘘なもんか。不満や負担を感じるくらいなら俺は最初から沙樹を選ばず自由を選ぶ。…とっくにここから逃げているさ、池袋から」
物思いに耽るように、正臣は天井を見つめた。
かつて一度別れる事を選んだ二人だったが、こうして再び二人でいる事を選んだ。
正臣は、これは一つの自らへの戒めだとも考えている。とは言え正臣は沙樹の事は本当に好きだ。だからこれは犠牲愛とかそういうものではない。
そして沙樹を完全に彼から、臨也から切り離せたわけではない事も分かっている。
ダラーズの事も、ブルースクウェアの事も何一つ綺麗に解決できていない。沙樹を暗底から救い上げられたとも思っていないが、それ以上に会う事すら自ら赦せぬままでいる人だっている。それは間違いなく自己暗示の域であるが、そんな事は正臣のエゴになりゆる事だって自身が一番分かっている。
ただ、今の自分には現状を変えられるだけの力が無い。
それかて、分かりきっているのだ。
だから。
だからこそ。
「…俺には沙樹が必要だ」
ただ一言だけ、立ち尽くす沙樹に正臣は伝えた。まっすぐと目を見つめて。
「…っ、ごめん、ごめんね。っく…」
「泣くなよ…泣きたいのはどっちかっつーと騙された俺の方なんだけど」
「ほんとごめんなさい…っ」
へたりとその場に座り込んで泣き出した沙樹の元へ、正臣は近寄った。そして目を擦る沙樹の手を取り優しく握る。
「もういい、ただし次は無いからな…それから、こういう時は謝るより別の言葉が欲しいんだけど?」
正臣はまるで欲しいものをねだるような子供の表情で、沙樹を見つめた。
「……っふふっ、うん。そうだね。ありがとう、大好きよ」
泣き顔を振り切り、沙樹は笑顔で伝えた、正臣が一番だと。
少年が背負い込んだ運命は余りにも酷だった、少年が自ら課した問題は何れも簡単に解け行くものではなかった。
誰かの手のひらの上で、転がされている事も、わかっては、いた。
それでも、
今握り締める手のひらから伝わるぬくもりを、居場所を二度と手放さぬようにと、少年は少女の手の甲へ誓いのキスを一つ落とした。
作品名:かつてと今とこれからと 作家名:あやき”り