真夜中は純潔
顔を背けようとしたら、首と頬のちょうど真ん中に掌を当てられる。ぐいっと、無理やり正面を向かせられる程の強制力はない。やんわりとした力に、俺は強く抗議できない。葉佩は腕を伸ばして拘束を緩める。至近距離で見つめ合うことになって、むしろ顔を見られないくらい隙間なく抱いていてくれと思う。そして思った時点で、どうかしてると羞恥に死にたくなる。
「甲ちゃんは可愛いよね」
よりにもよって葉佩が、拍子抜けするほど場違いで見当違いな単語を選んだせいで、肩からごっそりと力が抜ける。
「……なに言ってんだ」
「もうさ、すんごい可愛い。クールぶって無関心装ってるくせに、実は根っこのところが熱いんだもんなあ。仲間とか協力とか、団結とか絆に憧れてるくせに。個人主義者きどったって駄目だよ」
常軌を逸した発言の後には、的外れな饒舌がくっついてきた。全部を否定するのはまるで意固地になっているみたいで癪だから、部分的にしか認めない。俺だって、世の中全てに冷めているわけじゃない。カレーや睡眠に対してなら執着心が強い自覚はある。
「俺は博愛主義のお前と違って、自分の興味のある物の為にしか動けない。勝手に熱血漢にしてくれるな」
「ふうん?だったら皆守は……」
「俺は?」
「学園が死ぬほど好きってこと?」
葉佩の視線は鋭利な刃物のように尖って、胸に深く刺さった。俺が副会長であることを見抜き、責めているように感じるのは疚しさからくるただの自意識過剰か。
「別に……お前がしつこいから付き合ってるだけだ」
学園になんて興味がない、囚われていない。そうだったらいい、という希望をのせてつぶやく。葉佩は見当違いの「ありがとう」をささやいた。
「いやいやなのに、こんなに付き合い良いなんてさあ、もうそれって俺のこと大好きって言っちゃってるようなもんじゃん。あ、さっきの、遠まわしに告白だった?」
「ったく、勝手に言ってろ……ほんと、能天気でハッピーな奴だな」
話題を逸らせたことにホッする。ついでに、気になったことを遅れて突っ込んでおく。
「あと、可愛いってのはなんだ。気色わりぃ」
「甲ちゃんは気色悪くなんかないよ!むしろ心地いいよ!」
「ばか、可愛いとか言い出すお前が気色悪いって話だ!」
零時過ぎに相応しくない声量になってしまう。
慌てて掌で自分の口元を覆う。と、葉佩がその手の甲に口付けてきた。ちゅっ、と軽いリップ音がする。
感触としてはたいしたことはない。でも、視覚的にはキスと大差ない。目前には輪郭が溶けるほど近く、葉佩の顔が広がった。呆気にとられはしたが、意外ではない。想定の外だったのはタイミングだけで、行為そのものじゃない。って時点で、本当に何かが歪んでいるとしか思えない。
「……この、変態」
「ちゃんと俺は確かめたでしょ?俺と甲ちゃんがおんなじ気持ちなら……嫌じゃないだろ?俺はこういうことがしたいよ。ホントは掌越しじゃないのがしたい。いや、これでも十分勇気振り絞ったんだけどね!?」
さっきまでのまだるっこしいやり取りが嘘のような、ストレートな物言いになる。
「勝手にしろって言ったのも、俺が部屋に入り込む邪魔をしなかったのも、ドア開けて追い出さなかったのも、甲ちゃんだよ。大好きとか告白とか、けっこう危ういことわざと言ってんのに。甲ちゃん、一回も否定しないとか……反則だよ」
不平そうに口を尖らせる。しゃあしゃあと言うくせに、葉佩の瞳には怯えの揺れもあった。俺は諦めの息を吐く。こいつの言う通り、とっくに気持ちは受容の構えでいた。諦めの嘆息はただのポーズだ。
相手に引きずられて仕方なく。そう思っているのはひどく楽なんだ。俺は、こいつが思っているよりも、ずっと変化に消極的だ。
かわらなくていいこと。変わって欲しいこと。ここじゃないどこかへ行きたいと願うのも留まりたいと望むのも。どっちも本心だから、二律背反に苦しむことになる。
「なあ、九ちゃん」
封印していた呼称でささやく。呼び方なんてたいした意味はないと思っていたが、それも数ヶ月前の、こいつが転校して来る以前のことだ。
「ななな、なに?」
名前呼びに面白いくらいに葉佩が動揺してくれたので、だいぶ溜飲が下がる。さっきされた不意打ちは忘れてやっていい。腕を葉佩の首に回した。しゅるりと衣擦れの音がする。同身長だと楽だな、この体勢。
「寝相が悪かったら、追い出すからな」
どんな環境でも眠れる自負はあるが、さすがに足が飛んでくればその限りではない。安眠を妨害されるのは好ましくない。
葉佩は、それって一緒に寝てもいいってこと?なんて野暮なことは訊かなかった。言っていたら即刻追い出すところだ。うん、うん、と何度も首を縦に振った後、急に真顔になる。
「大丈夫。俺、直立でも寝れるから」
心底真剣な声音で言うので、俺は気をつけの姿勢で眠る葉佩を想像して笑ってしまった。張り詰めていた空気が弛緩していく感覚に、気持ちまで落ち着いていく。
きっとまた朝には名字呼びに戻るのだろうが、それでも寂しくは思わないだろう。真夜中だけの秘め事があるのは特別の証だと、なにせ俺は知っている。