Second to None 前編
第1話
トントン、と誰かがアルフレッドと優しく叩いた。アルフレッドは目を開く、朝の陽射しが痛いほど降り注ぎ瞼が思うように開かない。少し間を置いてゆっくり瞼を開くと、そこには黒い髪の黒い瞳の彼が上からアルフレッドを覗き込んでいた。アルフレッドは驚いて、起き上がる。彼もびくりと身を縮めて、その姿にアルフレッドは思い出す。昨日の、全てを。
「あ、そうだった。君はもう一人で動けるのか」
昨日、起動するまではずっと眠ったままのような彼。アルフレッドはこの家に一人で住んでいたため、誰かの起こされるという行為を長い間忘れていた。慣れないことだったため、先ほどは驚いた。けれど彼は朝になったため、親切に起こしてくれただけのこと。起動してからそれほど経たないにもかかわらずそんなことまで理解し行動する彼に、アルフレッドは嬉しくなる。埋め込んだ日常行動パターンプログラムはどうやら正常に作動しているようだ。思わず笑ってしまう。つられて彼も笑った。そして彼は近くの机に置いてあったメモとペンでサラサラと何かを書く。何を書いているのか気になっていたアルフレッドが覗き込もうとする前に、彼はその文字をアルフレッドに見せた。
(おはようございます)
「あ、ああ。おはよう」
こんな風に朝の挨拶を交わしたのは、いったいどれだけ久しいだろう。急に家族ができた気分になるアルフレッド。たまらなくなってぎゅうっと抱きしめた。艶々の黒髪が、柔らかかった。
***
「あ、そうだ菊」
負けないくらい綺麗な名前を、と思っていたアルフレッドだったが。その容姿に他の名前など思いつかず、結局あの思い人の名以外にしっくりくるものが見つからなかったため自然と彼をそう呼ぶことにした。それに思い人とこのアンドロイドが出会う確立はゼロに等しいことなので、さして問題にはならないだろう。もし問題があるとしてもアルフレッドの人格が疑われる程度だ、だがアルフレッドは自負していた、そんなもの最初から歪み捻り放題であると。そして当の菊は、その名をとても気に入ったようであった。東洋の花の名前、とだけ教えてある。今度花屋で買ってきて見ようか。菊花を愛でる菊、悪くない。
「食器洗いなんてそこにある機械に放り込んでおけばいいって言ったぞ」
そしてアルフレッドと菊の二人の生活が始まってひと月は経ったある日。どうやら綺麗好きな菊はアルフレッドお手製自動食器洗い機の仕上がりに満足がいかないらしく、手とスポンジを使って洗いたがった。一応完全防水を施したものの動力源が電力である以上、水は天敵であることは変わらない。だから何度もアルフレッドは食器洗い機を使うように促すが、菊は頑なに拒んだ。最大の譲歩が菊の手にはめられたゴム製の手袋。菊曰く、それならアルフレッドさんが洗えばいいんです、と言うがいかんせん家事というものを全くやる気が無いアルフレッドは首を縦に振ることは無く。結局今もこうしてアルフレッドが食べた後の食器を菊が洗う。もちろん洗いあがりはピカピカ。
「でもお風呂は絶対ダメだぞ!それだけは守ってくれるかい?」
シンクで洗い物をしながら、菊が頷く。少し頑固なところがあるらしいが、基本的にはとても従順な性格のようだ。そこがとてもかわいくて仕方ない。
(カ ホ ゴ)
ゆっくり一文字ずつぱくぱくぱくと、菊はシンクからダイニングにいるアルフレッドに伝える。読唇術までは会得していないアルフレッドであっても、菊の言葉は伝わったらしく、違うぞと反論をした。そんなむきな姿に、菊は笑う。ガチャン、と音がした。アルフレッドが急に立ち上がったせいで飲みかけのコーヒーが零れる。菊は急いで蛇口の水を止めて、アルフレッドは悪くもズボンにコーヒーを零したため動けずにいた。立ち尽くしていると、菊がバスタオルを持ってやってくる。
「Thanks」
アルフレッドは自分のズボンを、菊は床に水溜まりのように広がったコーヒーを拭き始める。だがアルフレッドはそんな菊の二の腕を掴む。菊はびっくりして、持っていたタオルをコーヒーの水溜まりに落とした。ぼちゃん、跳ねた液体が菊の服を汚していく。
「手袋!」
はっとして見れば、菊は肌をむき出したまま拭いていた。けれど飲み残しとアルフレッドの服がほとんどを吸ったおかげで、菊が拭き取ろうとする量はとても少ない。だから菊は見つめ返す。これくらい心配いらない、と。
「そんな顔したってダメだぞ!」
でもアルフレッドは引かなかった。菊は仕方なくシンク近くに放り投げてきたゴム手袋を拾いに行く。はめて戻ってきた時、アルフレッドはまだ濡れていない方の手で菊の頭を撫でた。菊は再び服のを中断して、アルフレッドを見上げる。
「わかってくれ、俺はそれだけ君を大切に思っているだけなんだ」
一瞬戸惑いを見せる菊、けれどアルフレッドのその顔を見たら、どうしてかきゅうっと胸が痛くなって、笑って欲しいと思った菊は自分から微笑んでみせた。そうするとつられてアルフレッドも微笑む。この時菊は学んだ、笑って欲しいときは自分から笑って見せること。
「君はよく笑うね」
***
その日、アルフレッドは外で仕事があると言って、珍しく外出していた。菊が目覚めてから初めてのことで、もちろん一人で留守番をするということも初めての菊。帰りは夜ご飯の時間には間に合わせるから、と言って出て行ったアルフレッド。ならば菊が家に居てできることといえば美味しいと笑ってくれるようなご飯をつくること。そんな結論に至った菊はアルフレッドから与えられたパソコンのスイッチを入れて、料理について検索を始める。そういえば冷蔵庫の中にはどんな材料が残っていただろう、菊はパソコンの前から離れキッチンへ行き冷蔵庫のとりあえず野菜室を引き出した。あまりにも軽く引き出せてしまったので、恐る恐る覗き込むと予想外に何も無い野菜室しかそこにはなかった。
(…買い物に行かなくては)
そういえばここ最近雨が降っているからと外に出してもらえなかったので、ここ数日アルフレッドは外食ばかりを繰り返していたことを思い出す。菊は食べることも飲むこともできないので、半ば冷蔵庫の残り物のことを気にすることも忘れていた。けれどこんな生活では家計が成り立たなくなるのではないか、そもそもアルフレッドの収入源というものが未だに掴めなかった菊は、節約という言葉を思い出す。思い立ったら、菊はアルフレッドから自由に使えばいいと渡されたお金が入った財布を持って、テーブルの上には書き手紙を残して、スーパーへ向かった。久しぶりに見上げた空は暗い、地面にはまだ水溜りがちらほら残っている。一応用心することにこしたことは無いので、この前買ってもらった水玉模様のレインブーツを履いて傘も持っていくことにした。
(いってきます)
声が出せないとわかっていても、口が動く。菊はできるだけ急いで帰れるよう、少し急ぎ足でスーパーへと向かった。
***
(レジ袋が有料化…!)
作品名:Second to None 前編 作家名:こまり