逃げ水の夏
巻島さん、と呼ばれて振り向けば、小柄な体躯を自分と同じブレザーの制服に包んだ後輩が廊下の端から駆け寄ってくるところだった。
後輩……小野田坂道が総北高校に入学してもう3ヶ月が過ぎている。
『文系』『真面目』『インドア派』と顔に書いてあるようなメガネっ子が、自他共に認める校内有数の変人に何故か懐いている――それも、傍目にはっきりわかる程の多大なる尊敬と純粋な憧れの感情を持って――という事実は徐々に浸透しつつあるようだが、それでも何人かの生徒がぎょっとした顔で小野田の背を眺めている。
巻島は内心で軽く肩を竦めたが、その場に立ち止まり自分を呼んだ少年のことを待った。
「はぁ……っ。すみません、呼び止めちゃって」
「別に。急ぐ用があるわけでもないっショ」
「今、帰りですか?」
「ああ」
笑顔のひとつもなく、淡々と事実だけを並べて巻島は言葉を終了させる。呼び止めた相手にこんな態度を取られたら、普通は会話を続ける意思がないものと判断して立ち去るだろう。実際、小野田を物珍しそうに眺めていた巻島の同級生たちが、そのあまりに素気無い態度に棒でも飲み込んだような顔をしてそっと視線を逸らしていく。……聞き耳だけを二人に向けて。
正直居心地は悪いのだが、途中までご一緒しませんか、と、子犬が尾を振るような顔で言われれば巻島に断る理由はない。会話、という行為は苦手だが、小野田に対して悪い感情を抱いているわけでもない。緩く頷いて並び歩きだせば、無関心を装った野次馬たちが声もなくどよめく気配があった。
小心者のくせに意外と図太い後輩は、ぶっきらぼうな巻島の物言いにも、周囲から向けられる好奇心にも、まるで頓着せずにニコニコと笑っている。
「珍しいですね、同じ時間になるの。手嶋さんたちとは、たまに会うんですけど」
「あー……オレらのクラス、ホームルーム長いからなァ」
「そうなんですか?巻島さんの担任の先生って、ええと……」
「小関。物理の。……一年はまだ授業ないんだっけか」
「あ、はい」
「クハ、なら来年は覚悟しとけヨ」
「……そんなにですか」
「アイツ、次の授業のチャイムが鳴るまで自分の授業時間だと思ってやがるっショ」
「そ、それは……嫌ですね……」
心底嫌そうな小野田の顔にククッと喉を鳴らして校舎を出る。校舎の出口を西向きに設計した馬鹿はどこのどいつだと罵りたくなるほど、傾きかけた陽が眩しい。梅雨が明けて湿気も少しマシになったとは言え、コンクリートから立ち昇る熱気は蒸し器の中を連想させた。
暑い、とため息を吐いたのは多分、ほとんど同時のこと。どちらからともなく顔を見合わせ、苦笑する。
「自転車乗ってる時は気になんねえのになァ」
「そうですねえ……」
そのまま正門の方へと向かうことはせず、裏門側に設えられた駐輪場へと向かった。ママチャリとMTBとスポーツバイクが居並ぶその場所の、小野田は最も雑然とした隅から、巻島は使い込まれてはいてもピカピカのスポーツバイクばかりが整列している一角からそれぞれ愛車を引っ張り出した。
「あァ、今日はそっちの自転車なのか」
「ハイ! ……あ、すみません、これじゃ途中まで一緒にも何もないですね……」
「押して歩けば変わんねぇショ」
「え、で、でも」
「何してんショ、行くぞ」
インターハイに向け、メンバーの確定した自転車競技部に土日はない。毎週末のように一日中走り込み、平日は平日で部活として許されているめいっぱいを練習に費やしている。適度な休憩を取ることも大事な練習メニューの一つであるという監督の言により、週に一度だけ設けられた部活の休みだった。そんな日だからこそ、愛着のある銀色のママチャリを選んで乗ってきたのだろう小野田が巻島には微笑ましい。
「そう言えば、田所さんや金城さんは、」
「田所っちは何か委員会の仕事があるっつってたショ。金城は監督とインハイの打ち合わせだな。……お前こそ、今泉と鳴子はどうしたっショ」
「鳴子くんは兄弟と約束があるらしくて、その、ホームルーム途中で抜けて帰るって言ってました。今泉くんは車だから……」
「……アイツら学校を何だと思ってるっショ」
「す、すいません」
「何でお前が謝るんだヨ。ま、オレも人のこと言える頭じゃねぇけどな」
「巻島さんの髪はかっこいいです!」
「カッコいいかどうかじゃなくて校則違反だっつの」
半ば傾いてまだ突き刺すような陽射しを嫌い、そこかしこに植えてある樹木の影を伝うようにして歩いた。白いコンクリートで舗装された地面は細いホイールには優しいが、降り注ぐ紫外線と熱を吸収してはくれない。海からの風が吹いてくれればまだ涼を感じられないこともないのだが、今日は死んだような暑さだけがじっとりと漂っている。日光をささやかに遮ってくれる木々でさえ、一歩離れれば青々と茂る原色の葉が刃物のように煌めいて網膜を焼いた。
「それにしても暑っちぃなァ……」
「そうですねえ……」
背中に張り付いたシャツが不快で、ぬるま湯のように呼吸をし辛くさせる凪いだ空気が不快で、巻島の眉間には普段より一本多い皺が刻まれている。にもかかわらずその口角は緩く持ち上がり、漂わせる空気もどこか穏やかで――そしてどこか、楽しそうですらあった。
巻島と小野田の二人連れに好奇の視線を注ぐ誰も、その理由は知らない。巻島自身さえ。
自転車に乗っている時からは考えられないような速度で、正門から緩やかに続く坂を下る。巻島も小野田も、言語による意思疎通が得意な方ではないから自然と沈黙の時間は多く、けれど互いに、隣を歩くこの相手とであれば会話の空隙が気にならないことに気づいていた。
「あの」
「なァ」
「……お先にどうぞ」
「……オレのは大したことじゃないっショ」
「ボクもです」
そんな相手には今まで、数えるほどしか逢ったことがない。横たわる沈黙は気にならないのに、会話そのものも苦手なのに、会話を「続けたい」とそう思う相手に逢ったことも。
ましてや先輩後輩の間柄で縛られる相手がそうなるなど、つい3ヶ月前までは想像すらしていなかった。
「あー……いや、その……なんだ。どうよ、最近」
「……巻島さん?」
きょとんとした顔が、左斜め下から見上げているのが巻島にはわかる。言葉はなく、ただ不思議そうに巻島が先を続けるのを待っている。なんだかひどく居た堪れない気持ちになって、ガリガリと頭を掻き毟った。
「いや、お前、元々、体育会系?っつの……苦手なんショ」
それはずっと、気になってはいたことだった。
気になってはいたけれど、正面切って『それ』を問いかけるのは巻島にはひどく難しいことでもあった。
こんな風に、偶然の力を借りた何気ない雑談に交えてさえ、言葉を選ぶのに苦心する。
「あ、ハハ、そうですね。体育は1以外とったことないですし。運動部の、上下関係が絶対みたいなところも……少し怖くて」
「うちはまァ……そういうのユルい方だと思うけどヨ。金城も田所っちも……オレも、こんなんずっと慣れちまってるから……アレだ、文系のお前にとってもそうなのかはワカんねぇショ。だから……」
後輩……小野田坂道が総北高校に入学してもう3ヶ月が過ぎている。
『文系』『真面目』『インドア派』と顔に書いてあるようなメガネっ子が、自他共に認める校内有数の変人に何故か懐いている――それも、傍目にはっきりわかる程の多大なる尊敬と純粋な憧れの感情を持って――という事実は徐々に浸透しつつあるようだが、それでも何人かの生徒がぎょっとした顔で小野田の背を眺めている。
巻島は内心で軽く肩を竦めたが、その場に立ち止まり自分を呼んだ少年のことを待った。
「はぁ……っ。すみません、呼び止めちゃって」
「別に。急ぐ用があるわけでもないっショ」
「今、帰りですか?」
「ああ」
笑顔のひとつもなく、淡々と事実だけを並べて巻島は言葉を終了させる。呼び止めた相手にこんな態度を取られたら、普通は会話を続ける意思がないものと判断して立ち去るだろう。実際、小野田を物珍しそうに眺めていた巻島の同級生たちが、そのあまりに素気無い態度に棒でも飲み込んだような顔をしてそっと視線を逸らしていく。……聞き耳だけを二人に向けて。
正直居心地は悪いのだが、途中までご一緒しませんか、と、子犬が尾を振るような顔で言われれば巻島に断る理由はない。会話、という行為は苦手だが、小野田に対して悪い感情を抱いているわけでもない。緩く頷いて並び歩きだせば、無関心を装った野次馬たちが声もなくどよめく気配があった。
小心者のくせに意外と図太い後輩は、ぶっきらぼうな巻島の物言いにも、周囲から向けられる好奇心にも、まるで頓着せずにニコニコと笑っている。
「珍しいですね、同じ時間になるの。手嶋さんたちとは、たまに会うんですけど」
「あー……オレらのクラス、ホームルーム長いからなァ」
「そうなんですか?巻島さんの担任の先生って、ええと……」
「小関。物理の。……一年はまだ授業ないんだっけか」
「あ、はい」
「クハ、なら来年は覚悟しとけヨ」
「……そんなにですか」
「アイツ、次の授業のチャイムが鳴るまで自分の授業時間だと思ってやがるっショ」
「そ、それは……嫌ですね……」
心底嫌そうな小野田の顔にククッと喉を鳴らして校舎を出る。校舎の出口を西向きに設計した馬鹿はどこのどいつだと罵りたくなるほど、傾きかけた陽が眩しい。梅雨が明けて湿気も少しマシになったとは言え、コンクリートから立ち昇る熱気は蒸し器の中を連想させた。
暑い、とため息を吐いたのは多分、ほとんど同時のこと。どちらからともなく顔を見合わせ、苦笑する。
「自転車乗ってる時は気になんねえのになァ」
「そうですねえ……」
そのまま正門の方へと向かうことはせず、裏門側に設えられた駐輪場へと向かった。ママチャリとMTBとスポーツバイクが居並ぶその場所の、小野田は最も雑然とした隅から、巻島は使い込まれてはいてもピカピカのスポーツバイクばかりが整列している一角からそれぞれ愛車を引っ張り出した。
「あァ、今日はそっちの自転車なのか」
「ハイ! ……あ、すみません、これじゃ途中まで一緒にも何もないですね……」
「押して歩けば変わんねぇショ」
「え、で、でも」
「何してんショ、行くぞ」
インターハイに向け、メンバーの確定した自転車競技部に土日はない。毎週末のように一日中走り込み、平日は平日で部活として許されているめいっぱいを練習に費やしている。適度な休憩を取ることも大事な練習メニューの一つであるという監督の言により、週に一度だけ設けられた部活の休みだった。そんな日だからこそ、愛着のある銀色のママチャリを選んで乗ってきたのだろう小野田が巻島には微笑ましい。
「そう言えば、田所さんや金城さんは、」
「田所っちは何か委員会の仕事があるっつってたショ。金城は監督とインハイの打ち合わせだな。……お前こそ、今泉と鳴子はどうしたっショ」
「鳴子くんは兄弟と約束があるらしくて、その、ホームルーム途中で抜けて帰るって言ってました。今泉くんは車だから……」
「……アイツら学校を何だと思ってるっショ」
「す、すいません」
「何でお前が謝るんだヨ。ま、オレも人のこと言える頭じゃねぇけどな」
「巻島さんの髪はかっこいいです!」
「カッコいいかどうかじゃなくて校則違反だっつの」
半ば傾いてまだ突き刺すような陽射しを嫌い、そこかしこに植えてある樹木の影を伝うようにして歩いた。白いコンクリートで舗装された地面は細いホイールには優しいが、降り注ぐ紫外線と熱を吸収してはくれない。海からの風が吹いてくれればまだ涼を感じられないこともないのだが、今日は死んだような暑さだけがじっとりと漂っている。日光をささやかに遮ってくれる木々でさえ、一歩離れれば青々と茂る原色の葉が刃物のように煌めいて網膜を焼いた。
「それにしても暑っちぃなァ……」
「そうですねえ……」
背中に張り付いたシャツが不快で、ぬるま湯のように呼吸をし辛くさせる凪いだ空気が不快で、巻島の眉間には普段より一本多い皺が刻まれている。にもかかわらずその口角は緩く持ち上がり、漂わせる空気もどこか穏やかで――そしてどこか、楽しそうですらあった。
巻島と小野田の二人連れに好奇の視線を注ぐ誰も、その理由は知らない。巻島自身さえ。
自転車に乗っている時からは考えられないような速度で、正門から緩やかに続く坂を下る。巻島も小野田も、言語による意思疎通が得意な方ではないから自然と沈黙の時間は多く、けれど互いに、隣を歩くこの相手とであれば会話の空隙が気にならないことに気づいていた。
「あの」
「なァ」
「……お先にどうぞ」
「……オレのは大したことじゃないっショ」
「ボクもです」
そんな相手には今まで、数えるほどしか逢ったことがない。横たわる沈黙は気にならないのに、会話そのものも苦手なのに、会話を「続けたい」とそう思う相手に逢ったことも。
ましてや先輩後輩の間柄で縛られる相手がそうなるなど、つい3ヶ月前までは想像すらしていなかった。
「あー……いや、その……なんだ。どうよ、最近」
「……巻島さん?」
きょとんとした顔が、左斜め下から見上げているのが巻島にはわかる。言葉はなく、ただ不思議そうに巻島が先を続けるのを待っている。なんだかひどく居た堪れない気持ちになって、ガリガリと頭を掻き毟った。
「いや、お前、元々、体育会系?っつの……苦手なんショ」
それはずっと、気になってはいたことだった。
気になってはいたけれど、正面切って『それ』を問いかけるのは巻島にはひどく難しいことでもあった。
こんな風に、偶然の力を借りた何気ない雑談に交えてさえ、言葉を選ぶのに苦心する。
「あ、ハハ、そうですね。体育は1以外とったことないですし。運動部の、上下関係が絶対みたいなところも……少し怖くて」
「うちはまァ……そういうのユルい方だと思うけどヨ。金城も田所っちも……オレも、こんなんずっと慣れちまってるから……アレだ、文系のお前にとってもそうなのかはワカんねぇショ。だから……」