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逃げ水の夏

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小野田の走りからは自転車に乗ることの根源的な楽しさが見える、と監督は言った。それは巻島や金城や、およそ自転車競技部に所属している全員がずっと昔に覚え、そして最近では勝負の影に隠れてつい忘れてしまいそうになるものだ。

小野田の走りを今の総北が必要としていることは確かで、けれど初心者でなければ手にできないもの、見えない世界を小野田はまだ手放すべきではないのではないかと巻島は思う。敗北の悔しさだとか、勝利の味なんてものは自転車を続けていく限りいつも目の前にあるものだ。

自転車競技部の練習量は決して少なくない。インターハイが近いせいもあり、合宿後の走り込みはそれこそ過酷と言っていい。これまでどんなに自転車と親しんでいようが、どれだけクライマーの適性があろうが、勝利に向けて積み重ねる練習はそれらとは全く無関係に体と心へ負荷をかける。

好きでなくてはやっておれない、けれど自転車を楽しいと思う余裕すら時に擦り切れそうになることもある。今泉や鳴子と――「誰か」と共に道を走ることだけをただ望んでロードに乗ると決めた後輩にとって、これらの日々は本当に、……。

――だから。
大丈夫か、と。
言いたいのはただ、それだけなのに。

「……だから……ああ畜生、もういい、何でもねぇ……ショ」

話しておきたいことも、訊いておきたいことも、言ってみればただそれだけのこと。
自分以外のクライマーを在学中に迎えられたことは素直に嬉しく、けれど元々運動部に入る……どころか関わる気さえなかっただろう後輩相手にどう接すればいいのか巻島にはまるでわからない。巻島自身、賢しげに助言だのアドバイスだのを押し付けてくる『センパイ』に辟易した記憶しかないために、自分が何を言おうと小野田には鬱陶しいだけかもしれないという怯みもある。
こんなとき田所なら――金城なら、手嶋なら、古賀ならどうやって言葉を繋ぐのだろうと巻島は空を仰ぎ、そしてすぐ、わかったところで自分に実行できるわけもないと諦めた。

視線を上げれば、青く繁る桜の並木が眩しかった。
鮮やかな青と桃と紫と橙が入り混じる西の空、雲ひとつない天が手を伸ばせば届きそうな高さに広がる見晴らしの道――初夏の夕。
声帯にまで届きかけた言葉を、結局有耶無耶に濁してしまった巻島を小野田は無言で見つめ、そしてふと。

笑う。

「ありがとうございます、巻島さん」
「……今の会話のどこにオレが礼を言われるポイントがあったヨ」
「え、ええと……その。う、上手くは言えないんですけど、その、大丈夫です」
「だから何が、ショ」
「運動部の人たちが怖いのは今も変わりません。体育の先生も苦手です」
「……」
「巻島さん、僕にとっては多分、自転車競技部の皆さんの方が特別なんです」

へらり、と。
だからありがとうございます、と小野田は重ねた。

「今泉くんも鳴子くんも、……巻島さんも、自転車に乗ることを一度も強要はしなかったでしょう。僕が今自転車に乗っていられるのは、だからです」

無害にして無益、そんな気弱げな表情をすると、誰がこの丸メガネの少年が一学年上の人間を相手に一歩も引かず、インターハイ出場を勝ち取ったなんて思うだろうか。なのにその頼りなげな眼差しは今、真っ直ぐに巻島の視線を捕らえたままでいる。

個人練習のあの日から、小野田は時折こんな顔を見せた。少し強く睨まれれば飛び上がって謝るくせに、人を見るとき決して目を逸らさないし言うべき言葉と思えば躊躇わない。それは見るものを、巻島を射竦める類の強さではなく、けれど不思議と逃げ出すことはできないのだ。

「その力を、くれた皆さんのために走ることを僕が自分で決めました。だから、大丈夫なんです。だから……ありがとうございます、心配してくださって」
「……おの」

――その、大きな黒い目に。
ふと口に、出そうとした言葉は、確かにそこにあったのだけど。

「あ、す、すいません何か、その僕ばっかり喋っちゃって」
「あ? あァ……いや……別に」

それは小野田がいつもの、気弱な後輩の顔に戻ると同時に形をうしなって道の左右へと消えてしまった。
小野田。声に出さず、唇を動かさずに巻島は呼んだ。小野田。小野田……坂道。
届くことのない声、聞かれない言葉、忘れてゆく日々。
脂を搾り取るような初夏の熱の中、密かに目を閉じてしまった形のない感情。

正門前の長い坂はいつの間にか終わっている。
緩く弧を描いて右と左に続く大通り、巻島の帰路は左で小野田は右だ。互いサドルに跨ってしまえばすぐ、振り向いても見えない距離まで離れるだろう。この短い時間にも厳しかった夏の陽は随分とぬるんで、時間ってのはこんなに早く流れるもんだっけか、巻島は思う。
時間ってのはこんなに早く、こんなにも曖昧なものを喉の奥に引っ掛けたままで……。

「それじゃ失礼します」
「……あぁ、また明日な」

礼儀正しく一礼してママチャリのペダルに足をかける後輩に右手をひらりとひらめかせ、巻島もまた家路に向かう。背を向けても小野田の真っ直ぐな視線は何故か心を離れず、逃げ水のような感情がどこか奥の方で燻るのを感じていた。確かにそこに見えているのに、どれだけ早く走っても辿りつくことはできないような、否、辿りついてはいけないような。



スピードを出すような気分にもなれず、自転車を緩く走らせながら巻島は一度だけ今来た道を振り向いた。
そこには数台の車と下校する同級生たちと、それから鮮やかな緑に染まる桜並木の光景が、ぬるま湯のような初夏の気温にただぽっかりと浮いている。
作品名:逃げ水の夏 作家名:蓑虫