杖の下に回る犬は打てぬ
銀時はその後何事も無かったようで、桂はほっと胸をなでおろす。右手の傷も化膿もしなかったことから、あの猫は危険ではなかったようだった。
しかし、当面の問題はそこではなかった。銀時が全くと言って良いほど口を利かないことが、現在における桂の最大の問題であった。
「昨日はすまなかった」
そう言えども、銀時はちらと目を開いただけですぐに閉じてしまい、桂の姿すら見ようとしない。腹を立て、人が心配してやったと言うのにと憤慨し桂は席に戻る。戻ってから、しかしやはりここは自分が折れ、謝るべきであろうと再度立ち上がり振り返った時には、銀時は居なくなっていた。
そんなことがあってから３日、こうなると桂も意地になってもう謝ってやるものか、と心に誓う。人の話を聞かない方が悪いのだと、銀時を視界に入れることも無く、桂は背を伸ばし前を見続けた。
じゃり、と背後から砂を踏む音がする。けれど桂は振り返らない。足音の主は嫌と言うほどわかっていた。無視をする癖に、銀時は何故か桂の後ろをついて歩く。このところずっとそうだったが、お互い意固地になっているため一定の距離を保つだけで、それ以上は近付かないし振り返らない。それを破った方が謝るのだと、お互い相談したわけでもないのに決めていた。謝れば、許してやると。
銀時の存在を意識の外へやればいつも通りなので、真っ直ぐ前を見つめながら歩く。と、先日の塀のあたりに黒い影が過ぎった気がした。丁度角になっており見えないが、あれはもしやと駆け出す。
走り、角を曲がったところで知らず上がっていた口許を桂はきゅっと引き締めた。しまった、と軽く舌打ちをして前を見据える。
正面に居たのは黒く大きな犬だった。これまた愛らしいふわふわのもこもこ、だが、ぐるるる、と唸り声を上げ桂を見るその目には敵意が込められている。嫌われる、なんて話どころではない。
近頃話題になっていた野犬だろうと桂は目を逸らさず考える。背を向ければたちどころに襲われる。だが、このまま膠着していてもどうしようもない。
その時桂の背後からじゃり、と砂を踏む音がした。あっと弾かれたように桂は振り向く。ばっちり驚いた顔の銀時と視線が合った。
「来るな銀時！」
叫ぶと同時か、犬が飛び掛ってくる。黒い影が迫るのを、ゆるやかに首を動かして呆然と見上げる。ああ、さすがにこれは拙いかも知れん。この間のように指先に一つ穴が空いただけでは済まないだろう。
一瞬で判断し、ぎゅっと目を閉じた桂の胴に衝撃が走った。予想外の方向からの攻撃に息が詰まる。
「っ、」
「バカ！逃げるぞ！」
「銀時？」
目を開くと銀時のアップに、桂はぱちくりと瞬いた。呆ける桂の右手を掴むと銀時は走り出す。
「銀時、待て、あの犬は」
「最近話題の野犬だろうが！とにかく走れ！」
元来た道を駆け戻る。ただひたすらに前を見て走ると、銀時の銀色の髪がふわふわと揺れているのが見えた。光を反射し、きらきらと輝く。
近場にあった誰かの家の納屋に飛び込むと扉を閉じた。ぜいぜいと荒い息を整えてから、二人静かに一度息を飲み、そっと扉を開く。薄く開いたところで周囲を見ても、犬の気配は伺えなかった。
「……大丈夫そうだな」
銀時が扉を完全に開く。犬の鳴き声も聞こえないのに桂もそっと顔を覗かせた。
「いないのか」
「あーお前、まさかまた犬可愛いとか言うんじゃねえだろうな」
「犬に、罪はないだろう。野犬になってああも荒れたのは何か理由があってのことではないのか？」
「生まれながらの野犬だっているだろうが」
ふ、と息を吐いて銀時は納屋から出る。続いて外へ出ると、伸びをしながら銀時は大きな欠伸をしていた。
「それでも」
「ん？」
ぐっと背を逸らしながら銀時が首を傾ける。桂は真っ直ぐ背を伸ばし、銀時を見ていた。
「俺は、生まれながらの野犬も好きだ」
きらきらと銀時の髪が光を反射するのに目を細める。銀時はぽかんと口を開いてから、ばっかじゃねえのと笑った。
「野犬はオメーが嫌いだろうよ」
「うるさい、それでも、俺は好きだぞ。にゃんこもわんこももふもふで愛らしいでは無いか！ただ、好かれんだけだ！」
「いや、だから嫌われてるんだろ」
桂の主張を銀時は呆れ顔で聞き流し、歩き出す。
「待て！」
「うっせー。帰んぞヅラ」
「ヅラではない、桂だ！」
決まり文句を怒鳴ると今度は桂が銀時の後ろを歩く。前を真っ直ぐ、銀時の背中を見て歩く桂には、銀時の口許が緩んだことは、知る由も無い。
作品名：杖の下に回る犬は打てぬ 作家名：なつ