貴方に贈る子守唄
その瞬間、確かに僕の時は止まっていた。
眼前に広がる光景を頭で理解しようとして、放棄する。
繰り広げられているのは、数人対1人の喧嘩騒動だ。それだけならばここ騒がしい街、池袋でも、頻繁とはいかないものの、無い事じゃない。
ただ、目の前で行われているのは、酷く圧倒的なものだった。
普通想像するのは、数人がたった1人に対してリンチしている映像だろう。それを公道の真ん中で堂々と行う馬鹿は居ないだろうけど、結局蓋を開けてみれば矮小で情けなく、卑怯極まりない出来事でしかない。
しかし、これはどうだ。その逆だ。
ワラワラと群がる人垣をまるでものともしない、存在感。
金の糸が本人の動きに合わせてふわりと揺れ動くものの、本人は然程場を動いていない為、騒がしいのは被害者だった。
まるで台風の目のようだ、と思いながら、少し離れた場所で真っ直ぐに、現場を目撃した。
歩道の隅へ、これでもかと身を寄せて逃げて行く人々を尻目に、僕はその通行の妨げとなることもなく、足がピタリと張り付いて動かない。
興奮冷めやらぬ脳内は考える事を止めた。理論で理解しても無理だった。
ちぎっては投げ、殴って蹴って、確実に1人、また1人と沈めて行けば、やがて場は静かになった。
無残にもアスファルトに転がされる人々は、動かなければこの夏の日差しにやられてしまうと言うのに、這い上がる気配すら見せない。
有り得ない事にビルのコンクリートにも人がめり込んでいる。漫画やアニメから飛び出した世界に、現実と夢想の境を探した。
台風の目が鬱陶しげに前髪を掻き上げる。太陽光を跳ね返すサングラスが鈍く光った。
想像だにしない暴力、有り得ない現実。流れる血流の早さに、僕は眩暈すらした。
フルリと震えた身体は何に反応したのだろう。少なくとも恐怖では無い。
何もかもを投げ捨てて、ソレに魅入った。
スラリとした痩躯で、身長は僕の背をゆうに超し、凡その目算で180cm超だと思われる。
長く伸びた両の足にはピタリとフィットしたジーンズを身に付け、VネックのT-シャツの上に上着をサラリと羽織る。
全体的に地味な装いをしていながら、彼の貌は非常に整っており、彼の美観をなんら損ねるものはない。
寧ろ、華美な装飾を施さない分、彼の素の良さが際立っているようにも思う。
鞄を肩から掛け、右腕には少し厳つい腕時計。首元は特に何も掛けられておらず、少し寂しい印象がしなくもない。
シャープな輪郭に、整った顔立ち。サングラスに阻まれて見えない眼元が悔やまれた。
骨張っている大きな掌は、あまりに自分と違っていて、そこで肩を落としてしまいもしたけれど。
全体的に男性の色気が漂う麗人に、すっかり見惚れてしまっていて。
だから、背後の人影に気付かず、つい肩を跳ねさせてしまう事になる。
「あっ、兄貴・・・」
ドキリ、として勢い良く振り返ると、そこには見知った、と言うより、つい先程まで顔を付き合わせていた人物が立っていた。
「あっ、あれ、幽君?」
「うん、帝人君、今帰り?」
「へ? あぁ、そうだけど・・・えっ、って言うか、兄貴、って・・・」
うん、と無表情に頷いて少年、同級生は無防備に男へと近付いた。
「あれ!? ちょっ・・・」
直ぐ傍まで行くと、背後からポン、と男の肩を叩く。
遠目にも分かる程苛立ちを湛えて振り返った男が、同級生を見ると一気にその怒気を散らして行くのが分かった。
「よぉ、幽。何してんだ、こんなトコで。学校は終わったのかよ?」
うん、と言葉無く頷いた同級生の頭を、男はクシャリと撫でた。
その際に外されたサングラスが、胸元のポケットに仕舞われる。
初めて見るその眼元が、切れ長で鋭いのに、甘く優しげに細められいるその様が、とても僕の印象に残った。
あぁ、僕はこの人をひょっとして誤解しかけていたのかもしれない、と、早合点を諫める。
この人は、暴力だけの超人じゃ、決してないんだろうな、と。
ふと気付くと、同級生の少年が此方を見ていて、手招きで僕を誘っていた。
相変わらず表情の動かない少年だが、彼これ1年と少しの付き合いとなる訳で、少しずつ、彼の感情の機微が悟れるようになってきた。
瞬間隣に立つ男に目を向け迷ったけれど、男の目線が特に僕自身に対して悪意のある感情を頂いている訳では無いと分かったから、躊躇ったものの、大人しくその誘いに応じる。
「帝人君には、紹介した事無かったよね。」
兄貴のあんな場面、見るの初めて?
そう問われ、衝撃から立ち直り掛けていたぼんやりした思考で何も考えずに首を縦に振る。
そう、と無感動に言葉を零した少年は、微かに驚いているようにも思った。
何故だろう、と訊く前に、彼はその答えを紡ぎ始める。
「まぁ、兄貴は池袋じゃ有名だから。帝人君ももう池袋に来て1年以上経つし、見掛けた事位はあると思ったんだけど。無かったの。」
有名人、と訊かされて頭を過ったのは、僕が池袋に来る事となった理由の一端を担う幼馴染が、入学当初に言っていた事だった。
芸能人などと言った有名人なのではなく、関わってはいけない有名人。名を聞き姿を目撃した時点で踵を返して立ち去るのが正しく池袋で生き残る術だと。
熱弁していた幼馴染の顔と言葉を思い出し、そう言えば同級生の兄弟がその内の1人だとか聞いた様な気がするなぁ、なんて朧げな記憶を浚っていると、青年の探る様な視線が僕を射抜いた。
何だろう、考えている事がバレたのかな、と、背に冷たい汗が一筋通ったのと、少年が青年の服を引っ張り紹介するのは同時だった。
「俺の兄貴、平和島静雄。あんな場面見た後でなんだけど、本当は凄く、優しい人なんだよ。」
そう言い、表情が変わらないながら、少年、平和島幽の気が緩むのが分かった。
普段何を考えているのか分からない様な顔をしている幽であるから、ここまで分かり易く雰囲気を和らげるのを僕は初めて見た。
それだけお兄さんが好きなんだろうな、と、今だ僕の顔をジッと見詰め続ける青年、静雄を見上げ、何か違和感を感じた。
見た目は特に変わった事など無いのに、何だろう。そう思って、しかし取り敢えず自己紹介をしようと、ペコリと頭を下げて静雄に向き合った。
「初めまして、竜ヶ峰帝人と言います。普段から幽君には御世話になっています。」
にこりと、笑って言えたつもりだった。けれど、静雄は僕の言葉を聞いた後も何も言わないどころか、眉間に皺を寄せてしまう。
何がいけなかったんだろう、初対面の相手にいきなり嫌われるのも辛いけど、それが友達の肉親であると尚更辛い。
どう言い繕おうかと口を開いた瞬間、静雄は幽の顔を見下ろした。
何も言っていないのに視線だけで兄の言葉を読んだのか、幽は小さく肯首する。
その様子に、あれ、ひょっとして、と疑念と、先程の違和感が急に晴れた気がして、急いで携帯を取り出した。
そして新規メール画面を呼び出すと、急いで文字を打って静雄に掲げる。
一連の行動を見ていた静雄は、急な僕の行いに瞠目していた。
「・・・どうし、て・・・」
何故、と心底驚嘆している静雄に内心で苦笑して、僕は先程の文字を全て消すと、新たに言葉を打った。