野ばら
1
イギリスが立っていたのは、なにもかもを日照らせるような、乾いた熱を持った場所だった。北アフリカ戦線、交戦しているのは“砂漠の狐”と呼ばれた男の指揮する軍である。彼はこの戦において、近年稀に見る傑物といえた。その戦いぶりは最年少にして元帥となったことからもうかがえ、現在イギリスが対峙しているのは、そんな男を持つ敵国だった。何時まで経っても治り切らない傷や、多くの民を失う痛みが自身を苛むのを知りながら、後には引けない。
砂漠での戦は消耗戦であり、物資のみならず精神、体力をも削り取っていく。靄がかった思考に、乾き切った視界が拍車をかけた。
誰もが美しかった祖国を思い、残してきた家族や、恋人を思った。
戦争は、自国の発展を見据え他国を征服せんとするイギリスという『国』の本意ではあるかもしれない。しかし、イギリス『個人』が望んだものでは、決して無かった。それでも、国と個人を天秤にかけた時、傾く方向は誰の目にも明らかだった。
たくさんの押し並べて愛しい我が子を焼かれ撃ち抜かれ失い、また己の身体にも絶えず大きな傷を負った。心臓をごうごうと焼かれ、死を覚悟するほどの痛みを覚え、そうして今も生きながらえた。
自分たちは人形のようなものだ。人と同じ機能を持っているというのに、許された感情がひどく少ない。
足を取られる砂にも慣れてきたところだった。生きることに関しての経験だけは腐るほどあるイギリスは、どんな野営地でも大抵は不満もなく生活することが出来る。彼の素情を知らない部下などはそんな彼の姿に違和感を覚えるのだろう。幼くあどけない容貌をした男が、砂漠の陣営で飄々と過ごし、あまつさえ躊躇うことなく銃弾を放つのだ。
本心ではどれだけ苦しく思っていようと、戦争を終わらせるには戦うしかない。それを知っているから、イギリスは人を殺すのだ。たとえそれが自国の民の目にすら「非情」に映ったとしても、彼らのためを思うから己の感情に蓋をして引鉄を引くのだ。
砂漠では到底目にすることの出来ない色が、細められ彼方を見詰める。彼の肌は厳しい日差しによって赤くなっている。もともとが雲の厚い国の者だ。この場所は地獄のような灼熱に感じられた。
間の暑さは体力を著しく奪い、夜間の冷たさは精神を凍えさせた。
部下には野営地に戻るよう伝えた。自分もじきに戻るつもりだ。身体は一刻もはやくと休息を求めていたし、疲労や熱から時折揺れる視界が危険であると頭では理解していた。
解っていて、この広い砂漠を眺めずにはいられない。
「…」
激しい砂塵の向こうにいるのだ。敵国であるそれは、今もって戦火を交わしている男だった。
自 分にだって会いたい者がいた。こうして身を削り憎悪を膨らまし続けなお、焦がれる相手がいる。戦場で幾度も目にし、銃を向け合い、屠し合った。
個人としての感情が、国としての使命を上回ることはない。それが自分たちの存在だからだ。誰も皆それを許さないだろうし、許されるとは思ったことがない。
イギリスは生まれてから千年以上を生きてきた。その長すぎる時間のなかで、自分の存在を呪ったことも少なくなかった。自分が『国』でなければ、ただの人間であったなら。何度もそう思い、感情を塞いできた。それでもイギリスはただ一度、過ちを犯した。引かなければならない引鉄を引くことが出来なかった。結果被った不利益は、己の威信を揺るがした。
それからはさらに自分の意義を呪った。
イギリスはより一層頑なになり、誰かを特別愛することは無いと思っていたのだ。
「ハ……、馬鹿馬鹿しい…」
呟いた声はみっともないほどに震えていた。消しされたらどれだけ楽になるだろうか。それでも、この砂の世界に、確かに焦がれる存在が在るのだ。
この戦争中、手を伸ばせば届きそうな距離に彼を見たこともある。伸ばせるだけの手であればどれほど良かっただろうと、思うのを止められない。手と手を取り合い、逃げることの出来る命だったならば。死ぬことで逃げ切ることのできる存在だったならば。
水分は貴重なのだから、こんなところでぼろぼろと流してしまっていいはずがない。胸に詰まるような感情が、砂漠の熱に溶けて流れ出している。
その男のことを思い出す度、心臓がひどく痛んだ。焼かれ、爛れた心臓が。心臓だけではない、身体のそこかしこが無情な爆撃に血を噴き出していた。鮮明に思い出せるほど深くに刻み込まれた、痛み。呼吸もままならないほど。
痛い。
「――くるしい…」
抱える愛し子たちを思うなら、死ぬわけにはいかない。結束し戦い抜き生き残り、美しかった国を取り戻したい。戦に怯えることなく、愛するものと愛し合い、大切にしたいものを大切にし、命の限りまで幸せに生きてほしい。
だから、こんなにも苦しいのならいっそあの男に殺されたい、そんな甘い夢は見てはならない。
己は大英帝国だ。誇り高き帝国であり、逃げを許さない、国民のためにあるべき存在なのだから。血反吐を吐いても、それは我が子を失う痛みに他ならない。常人ならば命を落として当然の痛みや傷に耐えることが出来る、それは自分に科せられた、彼らを守るための力だ。
苦しい。
「あいたい」
言葉にしてしまってから、もう自嘲の笑みすら形づくれなかった。細めた目からは止め処なく滴が流れ落ちた。
「会いたい。お前だってまだ、俺を好きでいるんだろう。 解ってるのに、…」
交わした視線は、どちらも互いに隠しようのない熱を孕んだものだった。憎しみの他に、害ねようとする悪意の他に、ただ純粋な思慕の情がそこにはあった。
この先にお前はいるのだろうか。いるのだろう。そこにいるお前は、今も俺を覚えていてくれるのか。敵国としての俺ではなく、ただ愛した者としての俺を。
覚えているのだろうな。
だからこそ、互いに苦しい。
戦争が終わるときは、どちらかが敗戦国となるときだ。自分が負けるつもりはさらさらないが、そうなったとき、また互いに好きでいられる自信はない。憎く思うだろう。悔しく思うだろう。疲弊しきった身体で、互いを愛し抜ける自信はない。それは、自分たちが生まれたときに科された業のようなものだ。
想いと存在意義が乖離していく。
好きだと言った声を忘れない。触れた感覚を忘れない。銃を突きつけ合った感情を忘れない。
国としての本能が殺せと告げる。ひとりの動物としての感情が愛せと告げる。
昔のような誤ちは犯さない。全身全霊でドイツという『敵国』を叩き潰す。育ってゆく想いからは目を背け、生き残るために武器をとる。
それでも、感情を消し去ることだけはしたくない。どんなに苦しくても、どれだけ傷んでも、この想いだけは無かったことにしたくない。いつかもう一度を夢に見て、現実にならなくてもいい、夢に見て、今は憎しみだけで血を被る。
自分が生きる意味を、どれだけ自問してきただろうか。自分が人間と同じような感情を持って生まれてきたことを、どれだけ嘆いただろうか。
自分たちは人形のようなものだ。人と同じ機能を持っているというのに、許された感情がひどく少ない。
イギリスが立っていたのは、なにもかもを日照らせるような、乾いた熱を持った場所だった。北アフリカ戦線、交戦しているのは“砂漠の狐”と呼ばれた男の指揮する軍である。彼はこの戦において、近年稀に見る傑物といえた。その戦いぶりは最年少にして元帥となったことからもうかがえ、現在イギリスが対峙しているのは、そんな男を持つ敵国だった。何時まで経っても治り切らない傷や、多くの民を失う痛みが自身を苛むのを知りながら、後には引けない。
砂漠での戦は消耗戦であり、物資のみならず精神、体力をも削り取っていく。靄がかった思考に、乾き切った視界が拍車をかけた。
誰もが美しかった祖国を思い、残してきた家族や、恋人を思った。
戦争は、自国の発展を見据え他国を征服せんとするイギリスという『国』の本意ではあるかもしれない。しかし、イギリス『個人』が望んだものでは、決して無かった。それでも、国と個人を天秤にかけた時、傾く方向は誰の目にも明らかだった。
たくさんの押し並べて愛しい我が子を焼かれ撃ち抜かれ失い、また己の身体にも絶えず大きな傷を負った。心臓をごうごうと焼かれ、死を覚悟するほどの痛みを覚え、そうして今も生きながらえた。
自分たちは人形のようなものだ。人と同じ機能を持っているというのに、許された感情がひどく少ない。
足を取られる砂にも慣れてきたところだった。生きることに関しての経験だけは腐るほどあるイギリスは、どんな野営地でも大抵は不満もなく生活することが出来る。彼の素情を知らない部下などはそんな彼の姿に違和感を覚えるのだろう。幼くあどけない容貌をした男が、砂漠の陣営で飄々と過ごし、あまつさえ躊躇うことなく銃弾を放つのだ。
本心ではどれだけ苦しく思っていようと、戦争を終わらせるには戦うしかない。それを知っているから、イギリスは人を殺すのだ。たとえそれが自国の民の目にすら「非情」に映ったとしても、彼らのためを思うから己の感情に蓋をして引鉄を引くのだ。
砂漠では到底目にすることの出来ない色が、細められ彼方を見詰める。彼の肌は厳しい日差しによって赤くなっている。もともとが雲の厚い国の者だ。この場所は地獄のような灼熱に感じられた。
間の暑さは体力を著しく奪い、夜間の冷たさは精神を凍えさせた。
部下には野営地に戻るよう伝えた。自分もじきに戻るつもりだ。身体は一刻もはやくと休息を求めていたし、疲労や熱から時折揺れる視界が危険であると頭では理解していた。
解っていて、この広い砂漠を眺めずにはいられない。
「…」
激しい砂塵の向こうにいるのだ。敵国であるそれは、今もって戦火を交わしている男だった。
自 分にだって会いたい者がいた。こうして身を削り憎悪を膨らまし続けなお、焦がれる相手がいる。戦場で幾度も目にし、銃を向け合い、屠し合った。
個人としての感情が、国としての使命を上回ることはない。それが自分たちの存在だからだ。誰も皆それを許さないだろうし、許されるとは思ったことがない。
イギリスは生まれてから千年以上を生きてきた。その長すぎる時間のなかで、自分の存在を呪ったことも少なくなかった。自分が『国』でなければ、ただの人間であったなら。何度もそう思い、感情を塞いできた。それでもイギリスはただ一度、過ちを犯した。引かなければならない引鉄を引くことが出来なかった。結果被った不利益は、己の威信を揺るがした。
それからはさらに自分の意義を呪った。
イギリスはより一層頑なになり、誰かを特別愛することは無いと思っていたのだ。
「ハ……、馬鹿馬鹿しい…」
呟いた声はみっともないほどに震えていた。消しされたらどれだけ楽になるだろうか。それでも、この砂の世界に、確かに焦がれる存在が在るのだ。
この戦争中、手を伸ばせば届きそうな距離に彼を見たこともある。伸ばせるだけの手であればどれほど良かっただろうと、思うのを止められない。手と手を取り合い、逃げることの出来る命だったならば。死ぬことで逃げ切ることのできる存在だったならば。
水分は貴重なのだから、こんなところでぼろぼろと流してしまっていいはずがない。胸に詰まるような感情が、砂漠の熱に溶けて流れ出している。
その男のことを思い出す度、心臓がひどく痛んだ。焼かれ、爛れた心臓が。心臓だけではない、身体のそこかしこが無情な爆撃に血を噴き出していた。鮮明に思い出せるほど深くに刻み込まれた、痛み。呼吸もままならないほど。
痛い。
「――くるしい…」
抱える愛し子たちを思うなら、死ぬわけにはいかない。結束し戦い抜き生き残り、美しかった国を取り戻したい。戦に怯えることなく、愛するものと愛し合い、大切にしたいものを大切にし、命の限りまで幸せに生きてほしい。
だから、こんなにも苦しいのならいっそあの男に殺されたい、そんな甘い夢は見てはならない。
己は大英帝国だ。誇り高き帝国であり、逃げを許さない、国民のためにあるべき存在なのだから。血反吐を吐いても、それは我が子を失う痛みに他ならない。常人ならば命を落として当然の痛みや傷に耐えることが出来る、それは自分に科せられた、彼らを守るための力だ。
苦しい。
「あいたい」
言葉にしてしまってから、もう自嘲の笑みすら形づくれなかった。細めた目からは止め処なく滴が流れ落ちた。
「会いたい。お前だってまだ、俺を好きでいるんだろう。 解ってるのに、…」
交わした視線は、どちらも互いに隠しようのない熱を孕んだものだった。憎しみの他に、害ねようとする悪意の他に、ただ純粋な思慕の情がそこにはあった。
この先にお前はいるのだろうか。いるのだろう。そこにいるお前は、今も俺を覚えていてくれるのか。敵国としての俺ではなく、ただ愛した者としての俺を。
覚えているのだろうな。
だからこそ、互いに苦しい。
戦争が終わるときは、どちらかが敗戦国となるときだ。自分が負けるつもりはさらさらないが、そうなったとき、また互いに好きでいられる自信はない。憎く思うだろう。悔しく思うだろう。疲弊しきった身体で、互いを愛し抜ける自信はない。それは、自分たちが生まれたときに科された業のようなものだ。
想いと存在意義が乖離していく。
好きだと言った声を忘れない。触れた感覚を忘れない。銃を突きつけ合った感情を忘れない。
国としての本能が殺せと告げる。ひとりの動物としての感情が愛せと告げる。
昔のような誤ちは犯さない。全身全霊でドイツという『敵国』を叩き潰す。育ってゆく想いからは目を背け、生き残るために武器をとる。
それでも、感情を消し去ることだけはしたくない。どんなに苦しくても、どれだけ傷んでも、この想いだけは無かったことにしたくない。いつかもう一度を夢に見て、現実にならなくてもいい、夢に見て、今は憎しみだけで血を被る。
自分が生きる意味を、どれだけ自問してきただろうか。自分が人間と同じような感情を持って生まれてきたことを、どれだけ嘆いただろうか。
自分たちは人形のようなものだ。人と同じ機能を持っているというのに、許された感情がひどく少ない。