野ばら
2
戦争は人の感覚を狂わせてしまう。戦場においては、もはや正常な思考など出来ようもなく、そうして殺し死んでいく彼らから目を逸らさずに看取ることが、自分たちに科せられた罰なのではないだろうか。自分の一部ともいえる愛しい子どもたちが、血に濡れ精神を病み、最愛の者から引き離され孤独に命を失っていく様は、思わず目を瞑り耳をふさいでしまいたいほどの苦痛を伴った。己の弱さが彼らを狂わせる。強ければ、戦いも直ぐに終わり彼らには幸福の生活を与えてやれるのに。
そんなもの以前に、『国』にあらない心情を吐露するならば、人同士の殺し合いなどしたくもなかった。まだ生きていられるはずの命同士が未来をつぶし合い、憎しみだけのなかで消えていく。国そのものである自分は、それを止める力を持たない。政治に踊らされ、隠蔽された事実を知りながらも隠し、平凡に暮らしたいだけの民を戦場という地獄に引きずり出す。己の無力さとあまりの欺瞞に死んでしまいたくなる。
許してくれと言って、誰が許せるだろうか。愛する者を永遠に失う苦しみは、生きる尺度の異なる自分には解らない。
これは罰なのだ。のうのうと誰かを愛した、欺瞞の国である自分への罰だ。
だから、やっと愛せた者に傷つけられ、また自分も彼を傷つけなければならない。
「お前参戦すんのおせえんだよ、馬鹿」
「えー?そんな口利いちゃっていいのかい?ここで物資の供給とか止められると君死んじゃうんじゃないの」
「ああそうだな。だが俺は降伏なんぞしねえぞ」
「君って自殺願望あったっけ?」
「ねえよ!死ぬ気なんかさらさらねえっつの。」
「べつにくたばってくれてもいいんだぞ!」
思わず荒げそうになる声音を律し、イギリスは傍らを歩む男を睨みつける。軽薄に明るい笑みを浮かべているのは、図体と態度ばかりでなく、影響力も武力も財力も、どれをとっても大きく成長してしまった元弟だった。ちいさい頃はこんなこと言う奴じゃなかったのにな、そう思っても、彼の言うことはあくまで正論なのだ。この大戦において今や彼、すなわち合衆国の援助無しには戦い抜くことは出来そうにないし、国の関係性など口先で罵り合えるような軽いものでしかない。自国に大きな損害が被るのでは、そう思えば手を切るのは簡単なことだ。自国を第一に考え、利用出来るもの己を害うもの、それらを素早く正確に見極めろ。それが国として一番正しい生き方だ。他の誰もなくイギリスが、この男に教えたことだった。
立派に育ってくれてまあ、憎たらしいことこの上ない。
「そういえばさ」
不意にアメリカが足を止めた。「あんだよ、」と言いながら顔を見上げると、そこには思いのほか真剣な表情を浮かべたアメリカの顔があった。薄いレンズの向こうで青く光る目がこちらを真摯に見据える。
「…なんだ、さっさと言え。」
その目が少し迷っているように見えて、イギリスは簡潔に催促する。この男が口ごもるというのは珍しいことだが、戦況は芳しいものだ。戦況に関わりないことならば、多少ショッキングなことを口にされても大丈夫だろうと思って続きを促した。アメリカはそれを汲んだのか、うん、と神妙にひとつ頷きレンズを指で少し上げた。
「少なくともさ、俺は今、君の味方でいるよ」
「ああ、そうだな。合衆国が連合国側に参戦してくれて助かってるぞ。感謝はしてる」
「うーん、そうなんだけどそうじゃなくてさ…」
真剣に言うから真剣に返したら、今度は一転してアメリカは困ったような表情になった。何かを言いあぐねて、首を撫でる。
「どういうことだ?」
立ち止まり対峙すると、己の体躯の貧相さが際立つ気がしてならない。何時の間にこれほどまでの差が付いたのだろう。それでも青い目はいつだって広大な大陸を見下ろす鮮やかな空色をしているし、金の髪は太陽のようにきらきらとしている。懐かしさが蘇る。
アメリカの次の言葉を待っていると、手が伸ばされた。黒い革の手袋に包まれた彼のそれは、見ただけでも解るほどに自分のそれより大きく無骨だった。何をするのだろうと行き先を見守っていると、手はイギリスの後頭部に触れた。触れたと思った瞬間、強い力で引き寄せられ、イギリスはアメリカに強かにぶつかることになった。
「んな、なにす、」
それから両腕で頭を抱き込まれていると理解すると同時に、ひどく動揺して口からはとぎれとぎれの言葉がこぼれる。逞しく、安心感のある肩口に引き寄せられ、理性は逃れようとするのに本能は安らぎを求めて身体が動かせない。
それから、いつか、もう何年か前にもこうして強くひたすらに抱きしめられた、そんな記憶が脳裏を過ぎった。それはアメリカではなかったのだが、一瞬だけ重なって思えた。
「アメリカ、なにすんだよ」
そう思うと急に頭の芯が冷えるような心地がして、イギリスはごく冷静にアメリカに問いかけた。
よくよく顔を埋めれば、彼のいつも来ているフライトジャケットからは彼の、太陽とアメリカのにおいがした。身体が覚えてしまっている、幸福で優しいにおいだ。こうして触れたのは何時ぶりだろう。
「君と俺は兄弟じゃないけど、味方なんだよ」
兄弟じゃない、という言葉に少し心がぎゅうとする。しかし、今の彼はそのことを否定的な意味で使っていないことはうかがい知れた。髪のなかに手袋越しの手を感じる。もう片方の手は、イギリスを宥めるように肩をぽんぽんと叩いた。
「君は尊大な態度で人を馬鹿にしていないといけない」
「てめ、」
何を言い出すのかと思えば、アメリカはいつもよりも数段低めた落ち着き払った声で「君は頑固で馬鹿なんだ」と言った。すかさず反論しようとするが、それは続けて紡がれた言葉に遮られる。アメリカのこういう大人びた声など聞き慣れないから、少し戸惑ってしまう。
頭をゆっくりと撫でられる。
「君の味方には、俺っていうスーパーヒーローがいる」
何が言いたいのか解るようで解らず、イギリスは無言で続きを促す。
「ヒーローに助けられる奴は幸せにならなきゃいけないんだ」
それがお約束さ、とアメリカは大人のような喋り口で子どものようなことを言う。なんとなくちぐはぐなのが可笑しく、思わず笑ってしまいそうになって、慌てて眉間にしわを寄せた。
「つまりは?」
イギリスが言うと、アメリカは暫し黙った。それから、彼は言った。
「はやく戦争を終わらせよう。終わった後のことはわからない。けど、終わらせないと何も始まらない。」
「どういう」
「君がそんなに辛そうなのは見てられないって言ってるんだよ。戦争が終われば、君は国としてじゃないことだって口に出来るかもしれないだろ」
“国としてじゃないことだって”
アメリカの言葉に、身体がこわばるのがわかった。それは核心を衝かれたことへの戸惑いでもあり、蓋をしてきたことへの期待でもあった。
「そんなわけ、」
「あるかもしれないだろ!」
やや強い口調で遮られる。さっきから遮られてばっかりじゃねえか、そんなことを思った。人の意見を聞かないアメリカらしいといえばらし過ぎるくらいにはらしい。君は、と頭の斜め上あたりで囁かれる。
「君は、いっつもそうやって期待しようとしない。…でもさ、さっき言ったばっかりじゃないか」
戦争は人の感覚を狂わせてしまう。戦場においては、もはや正常な思考など出来ようもなく、そうして殺し死んでいく彼らから目を逸らさずに看取ることが、自分たちに科せられた罰なのではないだろうか。自分の一部ともいえる愛しい子どもたちが、血に濡れ精神を病み、最愛の者から引き離され孤独に命を失っていく様は、思わず目を瞑り耳をふさいでしまいたいほどの苦痛を伴った。己の弱さが彼らを狂わせる。強ければ、戦いも直ぐに終わり彼らには幸福の生活を与えてやれるのに。
そんなもの以前に、『国』にあらない心情を吐露するならば、人同士の殺し合いなどしたくもなかった。まだ生きていられるはずの命同士が未来をつぶし合い、憎しみだけのなかで消えていく。国そのものである自分は、それを止める力を持たない。政治に踊らされ、隠蔽された事実を知りながらも隠し、平凡に暮らしたいだけの民を戦場という地獄に引きずり出す。己の無力さとあまりの欺瞞に死んでしまいたくなる。
許してくれと言って、誰が許せるだろうか。愛する者を永遠に失う苦しみは、生きる尺度の異なる自分には解らない。
これは罰なのだ。のうのうと誰かを愛した、欺瞞の国である自分への罰だ。
だから、やっと愛せた者に傷つけられ、また自分も彼を傷つけなければならない。
「お前参戦すんのおせえんだよ、馬鹿」
「えー?そんな口利いちゃっていいのかい?ここで物資の供給とか止められると君死んじゃうんじゃないの」
「ああそうだな。だが俺は降伏なんぞしねえぞ」
「君って自殺願望あったっけ?」
「ねえよ!死ぬ気なんかさらさらねえっつの。」
「べつにくたばってくれてもいいんだぞ!」
思わず荒げそうになる声音を律し、イギリスは傍らを歩む男を睨みつける。軽薄に明るい笑みを浮かべているのは、図体と態度ばかりでなく、影響力も武力も財力も、どれをとっても大きく成長してしまった元弟だった。ちいさい頃はこんなこと言う奴じゃなかったのにな、そう思っても、彼の言うことはあくまで正論なのだ。この大戦において今や彼、すなわち合衆国の援助無しには戦い抜くことは出来そうにないし、国の関係性など口先で罵り合えるような軽いものでしかない。自国に大きな損害が被るのでは、そう思えば手を切るのは簡単なことだ。自国を第一に考え、利用出来るもの己を害うもの、それらを素早く正確に見極めろ。それが国として一番正しい生き方だ。他の誰もなくイギリスが、この男に教えたことだった。
立派に育ってくれてまあ、憎たらしいことこの上ない。
「そういえばさ」
不意にアメリカが足を止めた。「あんだよ、」と言いながら顔を見上げると、そこには思いのほか真剣な表情を浮かべたアメリカの顔があった。薄いレンズの向こうで青く光る目がこちらを真摯に見据える。
「…なんだ、さっさと言え。」
その目が少し迷っているように見えて、イギリスは簡潔に催促する。この男が口ごもるというのは珍しいことだが、戦況は芳しいものだ。戦況に関わりないことならば、多少ショッキングなことを口にされても大丈夫だろうと思って続きを促した。アメリカはそれを汲んだのか、うん、と神妙にひとつ頷きレンズを指で少し上げた。
「少なくともさ、俺は今、君の味方でいるよ」
「ああ、そうだな。合衆国が連合国側に参戦してくれて助かってるぞ。感謝はしてる」
「うーん、そうなんだけどそうじゃなくてさ…」
真剣に言うから真剣に返したら、今度は一転してアメリカは困ったような表情になった。何かを言いあぐねて、首を撫でる。
「どういうことだ?」
立ち止まり対峙すると、己の体躯の貧相さが際立つ気がしてならない。何時の間にこれほどまでの差が付いたのだろう。それでも青い目はいつだって広大な大陸を見下ろす鮮やかな空色をしているし、金の髪は太陽のようにきらきらとしている。懐かしさが蘇る。
アメリカの次の言葉を待っていると、手が伸ばされた。黒い革の手袋に包まれた彼のそれは、見ただけでも解るほどに自分のそれより大きく無骨だった。何をするのだろうと行き先を見守っていると、手はイギリスの後頭部に触れた。触れたと思った瞬間、強い力で引き寄せられ、イギリスはアメリカに強かにぶつかることになった。
「んな、なにす、」
それから両腕で頭を抱き込まれていると理解すると同時に、ひどく動揺して口からはとぎれとぎれの言葉がこぼれる。逞しく、安心感のある肩口に引き寄せられ、理性は逃れようとするのに本能は安らぎを求めて身体が動かせない。
それから、いつか、もう何年か前にもこうして強くひたすらに抱きしめられた、そんな記憶が脳裏を過ぎった。それはアメリカではなかったのだが、一瞬だけ重なって思えた。
「アメリカ、なにすんだよ」
そう思うと急に頭の芯が冷えるような心地がして、イギリスはごく冷静にアメリカに問いかけた。
よくよく顔を埋めれば、彼のいつも来ているフライトジャケットからは彼の、太陽とアメリカのにおいがした。身体が覚えてしまっている、幸福で優しいにおいだ。こうして触れたのは何時ぶりだろう。
「君と俺は兄弟じゃないけど、味方なんだよ」
兄弟じゃない、という言葉に少し心がぎゅうとする。しかし、今の彼はそのことを否定的な意味で使っていないことはうかがい知れた。髪のなかに手袋越しの手を感じる。もう片方の手は、イギリスを宥めるように肩をぽんぽんと叩いた。
「君は尊大な態度で人を馬鹿にしていないといけない」
「てめ、」
何を言い出すのかと思えば、アメリカはいつもよりも数段低めた落ち着き払った声で「君は頑固で馬鹿なんだ」と言った。すかさず反論しようとするが、それは続けて紡がれた言葉に遮られる。アメリカのこういう大人びた声など聞き慣れないから、少し戸惑ってしまう。
頭をゆっくりと撫でられる。
「君の味方には、俺っていうスーパーヒーローがいる」
何が言いたいのか解るようで解らず、イギリスは無言で続きを促す。
「ヒーローに助けられる奴は幸せにならなきゃいけないんだ」
それがお約束さ、とアメリカは大人のような喋り口で子どものようなことを言う。なんとなくちぐはぐなのが可笑しく、思わず笑ってしまいそうになって、慌てて眉間にしわを寄せた。
「つまりは?」
イギリスが言うと、アメリカは暫し黙った。それから、彼は言った。
「はやく戦争を終わらせよう。終わった後のことはわからない。けど、終わらせないと何も始まらない。」
「どういう」
「君がそんなに辛そうなのは見てられないって言ってるんだよ。戦争が終われば、君は国としてじゃないことだって口に出来るかもしれないだろ」
“国としてじゃないことだって”
アメリカの言葉に、身体がこわばるのがわかった。それは核心を衝かれたことへの戸惑いでもあり、蓋をしてきたことへの期待でもあった。
「そんなわけ、」
「あるかもしれないだろ!」
やや強い口調で遮られる。さっきから遮られてばっかりじゃねえか、そんなことを思った。人の意見を聞かないアメリカらしいといえばらし過ぎるくらいにはらしい。君は、と頭の斜め上あたりで囁かれる。
「君は、いっつもそうやって期待しようとしない。…でもさ、さっき言ったばっかりじゃないか」