アザミの呪い
玄関の前に立つまではアメリカもまだ自制心を保っていた。猪突猛進は柄ではないし、ヒースロー空港めがけて飛行機が降下しはじめるまでにはとっくに心の準備も出来ていた。が、お世辞にも警戒心を持っていたとは言えなかった。
つまり、それが最大にして唯一の敗因だった。
普段は拍子抜けするほど容易くアメリカに主導権を渡し、あとは保護者顔で傍観を決め込もうとするイギリスも癪に障るが、主導権をもぎ取ろうとしてくるのもまた厄介なもので、そうして昨日の夕方、イギリスははじめっからおとなげもなく本気だった。で、アメリカは殆ど成す術もなくされるがままになり――アルコールの類は一滴たりとも口にしていなかったはずが、翌朝(つまり今この瞬間)起き出してみれば、呼び出される記憶は支離滅裂なものばかり。あえて思い出したいような代物でもなかったけれども、あとでイギリスにからかわれるのはまっぴらだったから、せめて筋道だけでも立てておきたい。
幸い、時間だけはたっぷりあった。というのもそのイギリスは今、昨日しっかり閉めておかなかったカーテンの隙間から差し込む日光がまっすぐ顔に当たっているにもかかわらず天下泰平な寝顔を惜しげもなくさらしていて、目を覚ますような気配などまったくなかったのだ。近頃体力が衰えてきた、徹夜なんてとてもじゃないができなくなったなどとヨーロッパの連中で集まればすぐに嘆きはじめる(その光景はまるで病院に集まった老人たちみたいだとアメリカは見るたびに思うのだが、いまのところ思うだけにとどめておいている)くせに、たぶんこちらをやりこめるためだけに昨晩は年甲斐もなく凶悪な笑顔を見せながらのしかかってきた様を思い出し、アメリカはひとり赤面した。そりゃあ間違いなくよかったけど、でもあれはちょっとあんまりだ。ていうか、今日仕事があったらどうするつもりだったんだろう。イギリスのことだから、これだけのためにたまってた仕事を全部片付けた、なんていうことがあったりして。
(いや、有り得るな……)
冗談半分で考え出したことがなんだかやけにリアルに想像されてしまい、一気にげんなりした。もっともおかげでアメリカはそれを追い払うために一度大きく深呼吸し、実のところそれなりに名残惜しくもあったベッドから離れた。部屋から出る前に、ちらとイギリスに目をやる。
白い踝。ふくらはぎの産毛。まろやかな輪郭を描きながらかすかに上下する肩。シーツから覗く指先。すこし嫌味ったらしいくらいに綺麗に整えられた爪。薄い唇。めずらしくくつろげられている特徴的な眉。それまで差していた朝の光にすら反応ひとつ見せなかった瞼がぴくぴく動いた段になって、アメリカは慌てて視線を逸してドアから滑り出ようとした瞬間、こんこんと窓硝子が鳴り、見覚えのある燃えるような赤毛がちらと視界の隅を掠めた。
*
見間違いであれば無論焦る必要はなかったし、そうでなくともあの態度からして先方も焦ってなどいないことは明白だった。というわけでアメリカはいつもよりすこしだけ急いで身仕度し、冷蔵庫に入っていたコーラをコップ一杯飲み、チーズとクラッカーを拝借して庭に出た。
こちらに背を向けて、アメリカとそうそうサイズの変わらない大男がひとり片方の肩を東屋に寄り掛からせて立っている。そして近付くまでもなく、こちらに振り向いた。
「よう、アメリカ」
「やあ。もうちょっと穏便に、たとえばドアのあたりから入ってきてくれたら有り難かったんだけど?スコットランド」
ひょろ長い印象を与えるのはイギリスとまるきり同じだったが、肩幅は広く、押し黙っているときは威圧感たっぷりの顔は、今は快活な笑みを浮かべている。そして、先程アメリカが目印にした炎色の髪。日陰にいる今は、赤銅色に見える。
「堅苦しいことを……玄関からだと起きちまうだろ。窓を叩くくらいなら、あいつが小鳥かほかのなにかだと思うだけで済む」
「ほかのなにか」にここまで意味を込められるのはこの兄弟ならではだ。アメリカが肩を竦めると、スコットランドはそれこそイギリスを起こしかねないような大声を立てて笑い、
「なーんだよ。お前に熱く見つめられて嬉しいのはイングランドくらいのものだろ」
「いや、めずらしくラフな格好してるから」
するとやけに上機嫌なスコットランドはわざとらしく厳しい表情を作って重々しいうなずきをひとつ。それも例のキルトをまとっていれば様になっただろうが、今の彼は生憎、アメリカとあまり変わらないトレーナーにジーンズ姿だった。腰に巻いたタータンチェックのシャツもただの飾りでしかない。しかも再び口を開いたころにはもう破顔していた。
「休日だからな。我らが末っ子をイングランドだけに侍らせておくってのも癪だし、な?」
「はべっ?!」
「だって、昨日はどうせお楽しみだったんだろ?」
「スコットランド、そういうのはセクシャルハラスメントって言うんだぞ……」
「お前の英語は相変わらずめちゃくちゃだなー」
「そっちのほうに逃げないでくれよ!!」
ああもうまったく。顔を横に背けて悪態を吐くとまたもや笑われた。さらに、ちっとも悪びれてなどいないような声で、悪い悪い、と肩を叩かれる。アメリカはもう答えずに鼻を鳴らしただけだった。ポケットに入れてきたチーズとクラッカーをようやく思い出してかじってみる。
しかしすこしずつ冷静になるにつれて、逆にスコットランドのにやけた視線が強く感じられるようになってきた。それでも顔を逸らしたままむきになって無視し続けていると、アメリカをよそにのんびりとこちらもどこからか取り出したのは、しばらくしたあとに庭に漂いはじめた香りで葉巻だと分かった。長期抗戦も辞さないつもりらしい。
それで、結局はアメリカが折れた。
「……いちおい言っておくけど、庭は禁煙なんだぞ」
「お、やっと機嫌直してくれたか?」
まだからかいの残った台詞は聞こえなかったふりで流し、
「イギリスだって、最近は禁煙してるし」
「お前が言い出したのか、それ」
「?うん。身体の問題は兎も角、もう時代遅れの習慣だしね。クリーンなイメージもない」
「そうかそうか」
言うなりスコットランドが目を閉じて黙り込む。が今度の沈黙は長続きせず、アメリカが問い質す前に目を開いたスコットランドがこほん、と咳払いをひとつ。
「あいつがリネンを入れてる棚の、上から三番目の引き出しの奥」
「え?」
「あとで探してみろ。いいものが見つかるから。……言っとくが、あんまり怒ってやるなよ。できれば俺が言ったってのも黙っとけ」
憮然とするアメリカの表情をどう勘違いしたのか、最後には誇らしげに鼻を鳴らした。
「おにいさまを見くびるんじゃねえ」
アメリカには何も感じることはなかった。その台詞はあからさまに「イングランド」を差してのことだったし、スコットランドやウェールズやアイルランドたちに「末っ子」と呼ばれたりこうして時折話をするのは嫌いではない。そも、アメリカのけして長くない弟時代に話したことがあるのはアイルランドたちとスコットランドくらいで、その記憶も酷く曖昧だ。
ところが言葉を発した張本人は、口を閉じたかと思いきや意外にもアメリカに胡乱げな視線をやって、
つまり、それが最大にして唯一の敗因だった。
普段は拍子抜けするほど容易くアメリカに主導権を渡し、あとは保護者顔で傍観を決め込もうとするイギリスも癪に障るが、主導権をもぎ取ろうとしてくるのもまた厄介なもので、そうして昨日の夕方、イギリスははじめっからおとなげもなく本気だった。で、アメリカは殆ど成す術もなくされるがままになり――アルコールの類は一滴たりとも口にしていなかったはずが、翌朝(つまり今この瞬間)起き出してみれば、呼び出される記憶は支離滅裂なものばかり。あえて思い出したいような代物でもなかったけれども、あとでイギリスにからかわれるのはまっぴらだったから、せめて筋道だけでも立てておきたい。
幸い、時間だけはたっぷりあった。というのもそのイギリスは今、昨日しっかり閉めておかなかったカーテンの隙間から差し込む日光がまっすぐ顔に当たっているにもかかわらず天下泰平な寝顔を惜しげもなくさらしていて、目を覚ますような気配などまったくなかったのだ。近頃体力が衰えてきた、徹夜なんてとてもじゃないができなくなったなどとヨーロッパの連中で集まればすぐに嘆きはじめる(その光景はまるで病院に集まった老人たちみたいだとアメリカは見るたびに思うのだが、いまのところ思うだけにとどめておいている)くせに、たぶんこちらをやりこめるためだけに昨晩は年甲斐もなく凶悪な笑顔を見せながらのしかかってきた様を思い出し、アメリカはひとり赤面した。そりゃあ間違いなくよかったけど、でもあれはちょっとあんまりだ。ていうか、今日仕事があったらどうするつもりだったんだろう。イギリスのことだから、これだけのためにたまってた仕事を全部片付けた、なんていうことがあったりして。
(いや、有り得るな……)
冗談半分で考え出したことがなんだかやけにリアルに想像されてしまい、一気にげんなりした。もっともおかげでアメリカはそれを追い払うために一度大きく深呼吸し、実のところそれなりに名残惜しくもあったベッドから離れた。部屋から出る前に、ちらとイギリスに目をやる。
白い踝。ふくらはぎの産毛。まろやかな輪郭を描きながらかすかに上下する肩。シーツから覗く指先。すこし嫌味ったらしいくらいに綺麗に整えられた爪。薄い唇。めずらしくくつろげられている特徴的な眉。それまで差していた朝の光にすら反応ひとつ見せなかった瞼がぴくぴく動いた段になって、アメリカは慌てて視線を逸してドアから滑り出ようとした瞬間、こんこんと窓硝子が鳴り、見覚えのある燃えるような赤毛がちらと視界の隅を掠めた。
*
見間違いであれば無論焦る必要はなかったし、そうでなくともあの態度からして先方も焦ってなどいないことは明白だった。というわけでアメリカはいつもよりすこしだけ急いで身仕度し、冷蔵庫に入っていたコーラをコップ一杯飲み、チーズとクラッカーを拝借して庭に出た。
こちらに背を向けて、アメリカとそうそうサイズの変わらない大男がひとり片方の肩を東屋に寄り掛からせて立っている。そして近付くまでもなく、こちらに振り向いた。
「よう、アメリカ」
「やあ。もうちょっと穏便に、たとえばドアのあたりから入ってきてくれたら有り難かったんだけど?スコットランド」
ひょろ長い印象を与えるのはイギリスとまるきり同じだったが、肩幅は広く、押し黙っているときは威圧感たっぷりの顔は、今は快活な笑みを浮かべている。そして、先程アメリカが目印にした炎色の髪。日陰にいる今は、赤銅色に見える。
「堅苦しいことを……玄関からだと起きちまうだろ。窓を叩くくらいなら、あいつが小鳥かほかのなにかだと思うだけで済む」
「ほかのなにか」にここまで意味を込められるのはこの兄弟ならではだ。アメリカが肩を竦めると、スコットランドはそれこそイギリスを起こしかねないような大声を立てて笑い、
「なーんだよ。お前に熱く見つめられて嬉しいのはイングランドくらいのものだろ」
「いや、めずらしくラフな格好してるから」
するとやけに上機嫌なスコットランドはわざとらしく厳しい表情を作って重々しいうなずきをひとつ。それも例のキルトをまとっていれば様になっただろうが、今の彼は生憎、アメリカとあまり変わらないトレーナーにジーンズ姿だった。腰に巻いたタータンチェックのシャツもただの飾りでしかない。しかも再び口を開いたころにはもう破顔していた。
「休日だからな。我らが末っ子をイングランドだけに侍らせておくってのも癪だし、な?」
「はべっ?!」
「だって、昨日はどうせお楽しみだったんだろ?」
「スコットランド、そういうのはセクシャルハラスメントって言うんだぞ……」
「お前の英語は相変わらずめちゃくちゃだなー」
「そっちのほうに逃げないでくれよ!!」
ああもうまったく。顔を横に背けて悪態を吐くとまたもや笑われた。さらに、ちっとも悪びれてなどいないような声で、悪い悪い、と肩を叩かれる。アメリカはもう答えずに鼻を鳴らしただけだった。ポケットに入れてきたチーズとクラッカーをようやく思い出してかじってみる。
しかしすこしずつ冷静になるにつれて、逆にスコットランドのにやけた視線が強く感じられるようになってきた。それでも顔を逸らしたままむきになって無視し続けていると、アメリカをよそにのんびりとこちらもどこからか取り出したのは、しばらくしたあとに庭に漂いはじめた香りで葉巻だと分かった。長期抗戦も辞さないつもりらしい。
それで、結局はアメリカが折れた。
「……いちおい言っておくけど、庭は禁煙なんだぞ」
「お、やっと機嫌直してくれたか?」
まだからかいの残った台詞は聞こえなかったふりで流し、
「イギリスだって、最近は禁煙してるし」
「お前が言い出したのか、それ」
「?うん。身体の問題は兎も角、もう時代遅れの習慣だしね。クリーンなイメージもない」
「そうかそうか」
言うなりスコットランドが目を閉じて黙り込む。が今度の沈黙は長続きせず、アメリカが問い質す前に目を開いたスコットランドがこほん、と咳払いをひとつ。
「あいつがリネンを入れてる棚の、上から三番目の引き出しの奥」
「え?」
「あとで探してみろ。いいものが見つかるから。……言っとくが、あんまり怒ってやるなよ。できれば俺が言ったってのも黙っとけ」
憮然とするアメリカの表情をどう勘違いしたのか、最後には誇らしげに鼻を鳴らした。
「おにいさまを見くびるんじゃねえ」
アメリカには何も感じることはなかった。その台詞はあからさまに「イングランド」を差してのことだったし、スコットランドやウェールズやアイルランドたちに「末っ子」と呼ばれたりこうして時折話をするのは嫌いではない。そも、アメリカのけして長くない弟時代に話したことがあるのはアイルランドたちとスコットランドくらいで、その記憶も酷く曖昧だ。
ところが言葉を発した張本人は、口を閉じたかと思いきや意外にもアメリカに胡乱げな視線をやって、