まだらの目
プロローグ 三ヶ島沙樹の肖像
俺は昔から、自分が子供であることを良く理解し、言い聞かせてきたつもりだが、今思い返してみてもやっぱり子供だった。自分の感情ばかりで、何も見えてはいなかった。最近になってようやく、あの頃の自分が精一杯だったのだと認められるようになってきたが、後悔していないわけじゃない。
その日は、両親のいない自宅の自室に、沙樹を連れこんでいた。俺達は付き合い始めの薄っぺらいテンションで、確かにある不安を覆い隠していたのだろう。だから、些細なことで穴が開き、子供だった俺が癇癪を起こしてしまったのも、仕方のないことだったのかもしれない。
不意に、沙樹の携帯が着信を告げた。その頃、沙樹の携帯を鳴らす人間は極僅かで、そのうちの一人である俺はこうして沙樹の目の前に居るので、相手は自然と特定された。着信はメールだったようで、嬉しそうな顔で携帯を見つめる沙樹の横顔を、俺は面白くない気分で見ていた。
メールを読み終えた沙樹が、画面から顔をあげる。やっと構って貰えると少し気分を浮上させた俺は、期待とは裏腹に冷や水を浴びせかけられた。
「ごめんね、正臣。臨也さんが呼んでるから行かなくちゃ」
沙樹はそう言って、帰り支度をはじめた。沙樹が折原臨也に一種の崇拝を抱いていることは、それこそ初めて会った頃から知っていたが、突然のことに俺は戸惑った。
「それって何の用事なわけ?」
俺は鞄の中身を確認している沙樹に聞いた。沙樹がどんなに折原臨也を信頼していても、俺にとっては得体の知れないただの男だった。そもそも、成人男性と女子中学生の組み合わせが異様なのであって、夜も更けてきたこの時間に、はいそうですかと送り出すのは、無理な相談だった。
「さぁ、何だろ? 来て欲しいって書いてあるだけだったから」
沙樹は何でもないように言ったが、俺は疑念に駆られた。
「こんな時間に来いなんて、おかしいだろ。……行くなよ」
俺は強めの口調で沙樹に詰め寄った。それでも沙樹は、困ったように笑うばかりで、俺は余計に苛立ちを募らせた。
「でも、行かないと」
俺は、出て行こうとする手を咄嗟に掴んでひきとめた。沙樹は俺の顔をじっと見つめた。沙樹の目は不思議そうに瞬き、虹彩は子供のように澄んでいた。
「沙樹ってさ、俺の彼女だよな?」
「そうだよ」
俺の問いに、沙樹は当然のように頷いた。
「じゃあさ、俺が行くなって言ってるのに、他の男の所に行くのっておかしくない?」
「だって、臨也さんはそんなんじゃないもん」
沙樹は何を言われているのか分からないといでもいうように、ことりと首を傾げた。こうしたやりとりは初めてじゃなかった。その度に、沙樹は同じ言葉を口にする。
「そう思ってるのは沙樹だけかもしれないだろ」
「臨也さんは私なんか相手にしないよ」
会話はいつもどおりの平行線を辿る。いつもならここで打ち切るのだが、俺は焦燥感に駆られ、いつもの線を踏み越えた。
「そうだとしてもさ、お前はどうなんだ? そんなにあいつが好きなの? 俺じゃダメ?」
これ以上、沙樹の口からあいつの名前を聞きたくなかった。俺は沙樹の肩を掴んで揺さぶる。
「お前にとって、あいつって何?」
「――――」
その日、俺は沙樹を行かせなかった。今思えば、それこそがあいつの思う壺だったのだ。あの頃強固にあいつと繋がっていた沙樹は、行動を逐一あいつに報告していた。あの日、沙樹がうちに来ていることも知っていて、あいつはわざと沙樹を呼びつけたのだ。
あの頃俺は、あまりに子供だった。下らない嫉妬をするばかりで、何も分かっていなかった。今になってようやく、あの頃の沙樹が人間の像を結んだ。