遅効性の毒でしかない
(優しくしたいと思わされるのは嫌いじゃないんだけどねぇ)
けれど、だからといって実際に優しくするかと言えばそれは全く別の話だった。
意思と行動は必ずしも同一ではない。人間とは意思に反した行動を伴うことがあり、それこそが人間特有の苦悩(つまり端的に言えば「ジレンマ」であるが)に繋がる。
ここで重要なのは彼にとって苦悩そのものに価値があるのではなく、“苦悩する個体(自分)”という一点において価値が見出されることを彼が正しく認識していることだった。
彼は、……折原臨也は、思い悩むのは好きではない。だがしかし、思い悩まされている臨也もまた人間らしく、人間を愛していると豪語する臨也自身にとっての愛すべき存在だ。
そんなわけで、臨也は目の前で臨也の用意した紅茶に微塵の危機感も持たず口を付ける少年を見て、複雑な感情に囚われていた。
「ねぇ帝人君」
臨也は努めてさらりとした執着の薄い声を出した。意識はしっかりと帝人に向いていたが、敢えてそれを声で感付かせないようにしようと考えてのことだった。
一方の帝人は素直に、臨也の言葉に対して律儀に顔を上げる。先程まで紅茶の湯気を受けていた顔面が、臨也の方を向いていた。帝人は年齢の割に幼い顔の作りをしている。大きな瞳がぱちり、ぱちり、と瞬きを繰り返した。
視線だけで「なんですか」と訴えている帝人に、臨也は緩い笑みを浮かべてやる。
「例えばその紅茶に遅効性の毒物が入っているとか、そういう可能性を、君は少し考えた方が良いかもしれないね」
「……はぁ」
はぁ、とはなんと間の抜けた返答なのだろうか。臨也は少しばかり帝人の回答に落胆しながら、それでも帝人に近づいた。
(ほらね)臨也はここでもまた違和感を拾い上げてしまう。
落胆したのに、こうやって側に寄ろうとする。側に寄って、対象に何を見出そうとしているのか。普段ならば何らかの原因があり、結果がある行動を取っている臨也だった。
今、なんの目的意識も持たず獲物だとだけ認識している人間に近寄る臨也自身が、臨也には理解出来ない。理解出来ない自分の能力不足がまた、臨也には理解出来なかった。
実際にはそこに個別能力は全くの無関係で、臨也は単に経験したことのない「はしか」にかかったような状態だった。それだけのことなのだが。
往々にして、病にかかっている人間というものはその事実に気付かないか、あるいは病人である自己を認めないものなのである。
「もし本当になにか入ってたら、どうするつもりなのかなぁ」
臨也は帝人を脅す為に繰り返し言い募った。「もし」の中身はなるべく酷くなくてはならない。帝人が知人からの脅迫において鈍感な人間に分類されるのであれば、臨也は逆に信頼を利用して不安感を煽る言葉を選ばなくてはならないと思った。
(信頼している人間だから安全だなんて、馬鹿いっちゃいけない!)
「君はまだ未成年で、言えば高校生という人生でも社会的責任を持たずして在る程度の自由が許された少年だ。行動力もあり、また必要な最低限の財力もまぁ……ないとは言えないかもしれないね。そんな君は社会的にどれくらいの価値があると思う?ないか。本当にないか。もしかして、あるんじゃないか。少なくとも、君のような少年をなんらかの目的で利用するアングラ社会において、君は“使える”かもしれないし、俺が必ずしもそういう組織の助力となるべく繋がっているかどうかはさておき、そういった組織の人間と俺にパイプラインがあるのは確かだ」
臨也は意地の悪い笑みを浮かべないように、努めて、努めて、そして、なるべく美しい笑みを浮かべるように意識した。
彼の鍛え上げられた造作美は果たして成功する。
「ねぇ、帝人君。その紅茶の味は、本当に紅茶の味がしたかい?」
整った顔立ちで悪魔のような言葉を吐いて、けれど肝心な部分で自分は完全悪でないと主張する臨也だった。今回も自分自身を完全な悪にしないよう、臨也という人間が汚れた世界に浸りきっているとは言わなかった。あくまでもそんな世界に「繋がり」がある、という程度に留めることがどれだけ狡いことなのかすら、帝人にはまだ分かっていないのかもしれない。
帝人は丁寧な動作で受け皿にカップを置くと、透明な赤を見下ろした。中で揺れる赤には時折オレンジや、イエローや、ピンク色が混じっている。口に残る紅茶の味は華やかな臭いに似合って少し酸味を伴っていた。
どう考えても、ローズヒップティーの類のソレの味だ。帝人は紅茶に詳しいわけではなかったが、大概のファミリーレストランに設置されたドリンクバーの中によくあるその紅茶の種類はその独特な味から分かっているつもりだった。
毒物が、例えばこの酸味の中に含まれているとでもいうのだろうか。
帝人は少し呆然として紅茶の中身を見つめていたが、やがて臨也の表情を窺うように視線を上げると、臨也の瞳と己の瞳が交錯した瞬間に眉を顰めた。
「からかわないでください」帝人の言い分は、これだ。
「なんでからかわれてると、思ったのかな?」
臨也はこの疑問を素直に抱いた。帝人は視線を臨也から逸らし、背筋を伸ばして両手を膝の上に置いてしまう。
ああ、そんな態度だから余計に幼く見えるのに、臨也も帝人の顔から帝人の指の先へと視線を移す。顔の表情と同じくらい、帝人の指は表情を露わにしていた。
「臨也さんが僕を他の人に売るなんて思えません」
膝の上できれいに揃った両手拳の、指先だけが時々もぞもぞと居心地悪そうに動いて見せる。
「臨也さんは僕の味方です」
「へぇ?」この相づちは、臨也自身でも興味の無さそうな声が上手く出たと思った。
「だって貴方も、ダラーズの一員じゃないですか」
「……そうだね」
「うん。……うん、そうだね。確かに、そうだ」臨也は繰り返し呟いた。意趣返しが言葉遊びで、尚かつその内容は帝人の年齢に見合った思い込みと願望と勘違いで出来ている。我が身に降り注いだ失態でもないのに、帝人の代わりに臨也が羞恥を覚え、嘲笑を生んだ。だがそれも、努めて、努めて、表出したりはしないのだ。
臨也は心中で叫ぶ「なんて愚かなんだろうか!」と。
それは目の前で臨也という人間を信じ切っている帝人に対してであったし。あるいは帝人が“臨也を信じている”と思い込んでいる臨也自身に対してでもあったかもしれない。
人間は臨也の想像した結論を容易に飛び越える。臨也が「確実にこうなる」と思うレールを、小石一つで脱線することができる。運が良ければどれ程かの確率でそのまま新たなレールの上に降り立つことすら、人間ならば出来るのだ。
だから臨也が、今までもずっと帝人が自分を信じている、と思い込んでいることも彼の経験値による結論でありながら、意外なところで勘違いという結論に成り代わるものであると推測せざるを得ないのは事実だった。
どちらも、愚かだ。
けれど、だからといって実際に優しくするかと言えばそれは全く別の話だった。
意思と行動は必ずしも同一ではない。人間とは意思に反した行動を伴うことがあり、それこそが人間特有の苦悩(つまり端的に言えば「ジレンマ」であるが)に繋がる。
ここで重要なのは彼にとって苦悩そのものに価値があるのではなく、“苦悩する個体(自分)”という一点において価値が見出されることを彼が正しく認識していることだった。
彼は、……折原臨也は、思い悩むのは好きではない。だがしかし、思い悩まされている臨也もまた人間らしく、人間を愛していると豪語する臨也自身にとっての愛すべき存在だ。
そんなわけで、臨也は目の前で臨也の用意した紅茶に微塵の危機感も持たず口を付ける少年を見て、複雑な感情に囚われていた。
「ねぇ帝人君」
臨也は努めてさらりとした執着の薄い声を出した。意識はしっかりと帝人に向いていたが、敢えてそれを声で感付かせないようにしようと考えてのことだった。
一方の帝人は素直に、臨也の言葉に対して律儀に顔を上げる。先程まで紅茶の湯気を受けていた顔面が、臨也の方を向いていた。帝人は年齢の割に幼い顔の作りをしている。大きな瞳がぱちり、ぱちり、と瞬きを繰り返した。
視線だけで「なんですか」と訴えている帝人に、臨也は緩い笑みを浮かべてやる。
「例えばその紅茶に遅効性の毒物が入っているとか、そういう可能性を、君は少し考えた方が良いかもしれないね」
「……はぁ」
はぁ、とはなんと間の抜けた返答なのだろうか。臨也は少しばかり帝人の回答に落胆しながら、それでも帝人に近づいた。
(ほらね)臨也はここでもまた違和感を拾い上げてしまう。
落胆したのに、こうやって側に寄ろうとする。側に寄って、対象に何を見出そうとしているのか。普段ならば何らかの原因があり、結果がある行動を取っている臨也だった。
今、なんの目的意識も持たず獲物だとだけ認識している人間に近寄る臨也自身が、臨也には理解出来ない。理解出来ない自分の能力不足がまた、臨也には理解出来なかった。
実際にはそこに個別能力は全くの無関係で、臨也は単に経験したことのない「はしか」にかかったような状態だった。それだけのことなのだが。
往々にして、病にかかっている人間というものはその事実に気付かないか、あるいは病人である自己を認めないものなのである。
「もし本当になにか入ってたら、どうするつもりなのかなぁ」
臨也は帝人を脅す為に繰り返し言い募った。「もし」の中身はなるべく酷くなくてはならない。帝人が知人からの脅迫において鈍感な人間に分類されるのであれば、臨也は逆に信頼を利用して不安感を煽る言葉を選ばなくてはならないと思った。
(信頼している人間だから安全だなんて、馬鹿いっちゃいけない!)
「君はまだ未成年で、言えば高校生という人生でも社会的責任を持たずして在る程度の自由が許された少年だ。行動力もあり、また必要な最低限の財力もまぁ……ないとは言えないかもしれないね。そんな君は社会的にどれくらいの価値があると思う?ないか。本当にないか。もしかして、あるんじゃないか。少なくとも、君のような少年をなんらかの目的で利用するアングラ社会において、君は“使える”かもしれないし、俺が必ずしもそういう組織の助力となるべく繋がっているかどうかはさておき、そういった組織の人間と俺にパイプラインがあるのは確かだ」
臨也は意地の悪い笑みを浮かべないように、努めて、努めて、そして、なるべく美しい笑みを浮かべるように意識した。
彼の鍛え上げられた造作美は果たして成功する。
「ねぇ、帝人君。その紅茶の味は、本当に紅茶の味がしたかい?」
整った顔立ちで悪魔のような言葉を吐いて、けれど肝心な部分で自分は完全悪でないと主張する臨也だった。今回も自分自身を完全な悪にしないよう、臨也という人間が汚れた世界に浸りきっているとは言わなかった。あくまでもそんな世界に「繋がり」がある、という程度に留めることがどれだけ狡いことなのかすら、帝人にはまだ分かっていないのかもしれない。
帝人は丁寧な動作で受け皿にカップを置くと、透明な赤を見下ろした。中で揺れる赤には時折オレンジや、イエローや、ピンク色が混じっている。口に残る紅茶の味は華やかな臭いに似合って少し酸味を伴っていた。
どう考えても、ローズヒップティーの類のソレの味だ。帝人は紅茶に詳しいわけではなかったが、大概のファミリーレストランに設置されたドリンクバーの中によくあるその紅茶の種類はその独特な味から分かっているつもりだった。
毒物が、例えばこの酸味の中に含まれているとでもいうのだろうか。
帝人は少し呆然として紅茶の中身を見つめていたが、やがて臨也の表情を窺うように視線を上げると、臨也の瞳と己の瞳が交錯した瞬間に眉を顰めた。
「からかわないでください」帝人の言い分は、これだ。
「なんでからかわれてると、思ったのかな?」
臨也はこの疑問を素直に抱いた。帝人は視線を臨也から逸らし、背筋を伸ばして両手を膝の上に置いてしまう。
ああ、そんな態度だから余計に幼く見えるのに、臨也も帝人の顔から帝人の指の先へと視線を移す。顔の表情と同じくらい、帝人の指は表情を露わにしていた。
「臨也さんが僕を他の人に売るなんて思えません」
膝の上できれいに揃った両手拳の、指先だけが時々もぞもぞと居心地悪そうに動いて見せる。
「臨也さんは僕の味方です」
「へぇ?」この相づちは、臨也自身でも興味の無さそうな声が上手く出たと思った。
「だって貴方も、ダラーズの一員じゃないですか」
「……そうだね」
「うん。……うん、そうだね。確かに、そうだ」臨也は繰り返し呟いた。意趣返しが言葉遊びで、尚かつその内容は帝人の年齢に見合った思い込みと願望と勘違いで出来ている。我が身に降り注いだ失態でもないのに、帝人の代わりに臨也が羞恥を覚え、嘲笑を生んだ。だがそれも、努めて、努めて、表出したりはしないのだ。
臨也は心中で叫ぶ「なんて愚かなんだろうか!」と。
それは目の前で臨也という人間を信じ切っている帝人に対してであったし。あるいは帝人が“臨也を信じている”と思い込んでいる臨也自身に対してでもあったかもしれない。
人間は臨也の想像した結論を容易に飛び越える。臨也が「確実にこうなる」と思うレールを、小石一つで脱線することができる。運が良ければどれ程かの確率でそのまま新たなレールの上に降り立つことすら、人間ならば出来るのだ。
だから臨也が、今までもずっと帝人が自分を信じている、と思い込んでいることも彼の経験値による結論でありながら、意外なところで勘違いという結論に成り代わるものであると推測せざるを得ないのは事実だった。
どちらも、愚かだ。
作品名:遅効性の毒でしかない 作家名:tnk