熱帯夜のサドンデス
うー、あーと奇声を洩らしながら、再び頭を抱えて悩みだした綱吉。
それでも結局は背に腹は代えられず、こんなところで干からびる訳にもいかないから、死ぬ気で逃げる算段をしながら、十二の文字のちょうど上あたり。ベルトに隠れる様に付いている龍頭に手を伸ばして、そして最後に深く、息を吸った。
ブロロロロロロロ!!
もしかしたらさようなら! 俺の短い人生!
目を強くつぶって、ひと思いに龍頭を引こうとした時、綱吉の耳が聞き慣れた、徐々に大きくなるエンジン音を拾った。
あれ?
生死をかけて――もしかしたらどちらも死であるが――龍頭を引こうとしていた綱吉はその音に思いとどまって、パチパチと瞬きをした。
誰も通る事無くかれこれ三時間程経過していたが、それでも一応脇によけていた綱吉が、道に出て周りを見渡した。するとゆらゆらと見ているだけでうんざりする陽炎の向こう、地平線の向こうから、これまた見ているだけでうんざりする真っ黒のバイクに真っ黒のスーツ。そして真っ黒の髪をした、出来ればあと一年は会わずに済ませたいと思っていたおっかない人が、向かって来るのが見えた。
へ?
人間という生き物は、予想外の出来事に遭遇すると動けなくなる。それが様々な訓練を積まされて来たドン・ボンゴレであろうとも、不意打ちの攻撃や暗殺に備えて家庭教師自らに何度も殺されそうになっていようともだ。綱吉は愛車の脇に立って口をぽかんと開いて体温よりも高い空気を身体に取り入れながら、瞬きすら忘れてバイクを眺めていた。
キキッ!
大きな単車を、ブレーキ音を鳴らしながら目の前で止めたその人物に、綱吉はいろんな意味で溜息を吐きそうになった。
よくもまあ、こんな炎天下に真っ黒のスーツを着込んでいられる物だ。
綱吉はすっかりジャケットを脱いでいてネクタイも取って、ワイシャツも両腕を捲し上げ胸元のボタンは三つ程開けている。それなのに綱吉の目の前でバイクから降りた人物は、真っ黒なスーツを着崩さずに、ネクタイすらも緩めずにいた。
「……暑くないんですか」
「服装の乱れ、は心の乱れ」
綱吉の問いに、全く疲労を感じさせない涼しげな声が揺るぎなく答えた。
綱吉は、そんな中学の風紀じゃあるまいしと思って、だが目の前の人は実際におっかない風紀委員長だった事を思い出して、口に出す事は留まった。
「そんな事より、なんでこんなとこにいるの」
「いやあ、ちょっとしようで出掛けてたんですが……見ての通りパンクです」
最後に会って別れた時、次会った時はもう、問答無用でぶん殴られる関係に逆戻りかと思っていた綱吉だが、目の前のおっかない人は何時も通り何も浮かべぬ表情で立っているだけ。無意識に強張っていた身体を解きながら、綱吉は愛車の後輪を示した。
「ボンゴレ製の丈夫なタイヤの筈なんですけどねえ」
「……一晩中200キロ走行とかしてるからじゃないの」
「そんな何時もしてる訳じゃないです! っていうかもうその話忘れましょうよ。お互い記憶から封印しましょう」
暑さの為ではなく顔を真っ赤にしながら、必死に両手を振る綱吉に、雲雀は絶対零度の視線を向け、トンファーを振り上げた。
「……一発殴ってもいい?」
「殴ってから言わないでくださいいい!!」
殴られないと油断していたが結局殴られてしまった。
涙目で頭を押さえながら、目の前の人を睨みつけるが、睨みつけられた人はちっともそんな事を気にせず、懐から携帯を取り出して誰かに電話をかけ始めた。
「もしもし、僕。……そう、仕方ないな。君じゃなければそんなお願い聞かないよ。うん、うんとサービスしてね。じゃあね」
「えええええええええ!?」
「何、煩いよ」
おっかない人は、綱吉には絶対聞かせないちょっと甘い声で電話をしていた。内容は分からないが、絶対あり得ない何かの譲歩をしていて、しかも切る直前には電話口にリップ音まで響かせやがった。
「ここで驚かなかったら何に驚くっていうんですか!!」
「何が。行くよ」
相変わらずの冷えた目で見つめて、おっかない人は再びバイクに跨った。
「え? ちょっと待って行かないで助けて! ……ってなんで電話使えるの?」
「喚いてないで早く乗りな。それと電話使えるのは、衛星電話だから」
バイクに跨っても尚、相変わらずトンファーをしまってくれない人に綱吉はもう何も言わず、バイクの後ろに跨った。
車を置いて行くのは心残りだったが、あとで取りに来れるだろう。
それでも名残惜しく視線を車に向けていたら、何の合図もなく突然バイクを走らされた。シートの端でも掴んでいようと思ったが、急発進でしかも、当り前でもあるが、後ろに人が居るからと労わってくれないスピードを出される。綱吉はさっさと諦めて、恐る恐る腰に腕を回した。
鼓膜を埋めるエンジン音に混じって、顔を寄せた背中から心臓の音が聞こえて来る。態度には全く出していなかったが、それでもやっぱり暑さを感じているのか、少ししっとりとした背中を通じて響く音は、少しだけ早い気がする。
なんか俺と同じ早さの気もするし、もうわかんないや。
「雲雀さん、ありがとうございます」
いい年した大人が、同じくいい年した同性にくっついて、それでも嫌な気持ちにならない事もわからなかったが、綱吉は全てを暑さのせいにしてしまって、ただ目を瞑って頬に風を感じながら、目の前の背中だけに身体を預けてしまう事にした。