しかれども炎日
真田のかたい指の腹が、肉の筋を確かめるように動く。帯は乱暴に緩められ、袴はすでに足元に蹴り寄せられた。太い血の道が通っている首の皮膚がどくどくと熱い。押し付けられた板間との間に汗が浮かんで境界を曖昧にした。
胸筋の間に触れていた指が脇腹をなぞる。伊達はふっと息を吐いてからだの緊張を保った。緊張しすぎていてもよくないし、弛緩させていてもよくない。真田の指は伊達の予想もつかないところに触れては、なぞるだけでそっと離れてゆく。伏せていた目を彼に向ければ、やはりなにやら気難しい顔をして伊達のからだに見入っている。しかし、いや、でも、などとぶつぶつと呟いては、伊達に触れていた指で顎をさすった。伊達はとうとう腕で眼球を押さえた。鼻から息をゆっくりと押し出すと、もう一度真田の指が伊達のからだに落とされる。こんなことでは、墨もいくらかしないうちに乾いてしまうに違いない。そう歯を噛みながら考えていると、ぽたりと、小さな音がした。真田の右手に握られた筆から、墨が一滴垂れ落ちた音であろう。
今朝、やにわに真田が屋敷に顔を出した。旅装もあらわに、長持ちから槍を取り出して一戦いかがでござろうと寄越してくる。顔を出すときは先触れを寄越せと常々言っているのに、この男といったらそれを守ったためしがない。今日も、訊けば途中で先触れを追い越してしまったと言う。真田がおとなって数刻のちにその先触れの馬がほうほうのていで屋敷に到着した。
先に言っておいてくれれば、なんとか時間を捻りだそうものを、こうも予定が詰まっていてはろくに真田の面倒など見られるものではない。それを言っても真田は聞いているのかいないのか、ガキのようにお会いしたかった顔が見たかった声が聞きたかったと繰り返すばかりでてんで会話になりやしない。陽が昇って、そろそろ空気がカンカンにあたたまってくる頃合いである。夕方になんとか時間を作ると約束して、真田にあてがった部屋から離れた。踏めば板間と足裏の間に汗の膜ができる。そういう季節である。
そうしてなんとか仕事をこなして、低いところに浮かんでいる雲が橙に染まっているのに気付く。筆を置き、ぶらりと真田の部屋に足を向けた。すると、薄茶を前になにやら気難しい顔をして縁に座り込んでいる。への字に曲がったくちびるはがんとして動かず、夕陽を受けて濃い影をつくった。……声をかけるのはしばし躊躇われた。柱にもたれかかってその様子をじっと睨んでいると、視線に気づいたか赤い目がこちらを向いた。
……悪い、待たせた。いえ、なんども言われておることを守れぬ某が悪うざいますゆえ。……なにごとだ。随分と聞きわけがいい。そして言っていることとは反対に目が鋭さを増している。真田はなんどかまばたきを繰り返して、小さく肩をすぼませた。待っておる間に、片倉殿がお相手をしてくださいました。そりゃよかった。言いながら、すっと板間に足を滑らせる。隣に腰を下ろし、柱に背中をもたれさせた。右頬を夕陽が焼く。真田の前に置かれた湯飲みから一口茶を失敬して、喉を湿らせた。
梵天とは政宗殿のことだろうか? いやに低い声でそう問われる。幼名だ。すると真田は一層肩をすぼませて、奥州ではそういう風習でござろうかと寄越してくる。話がてんで見えぬ。この男の中では繋がっている論理でも、言葉が足らないために理解できないということが多々ある。頬杖をついてそういう真田の様子を眺めた。政宗殿の六爪には誰ぞのお名前が?
その質問で、得心がいった。片倉の刀には確かに梵天と刻まれている。手合わせをしている最中にでもそれに気づいたのだろう。伊達は袂に手を突っ込んで、胡坐をかいていた足を伸ばした。汗をかいたふくらはぎに板間の冷たさがしみる。くちびるを歪めながら、あんたの名前、そう応えた。音のするほどに勢いよく真田が首を向けてくる。目を真ん丸に見開いて、眉をしかめてくる様子は伊達の予想していた通りのもので、この男の判りにくい話を聞かされて胃がざわついていたのが、少しだけおさまった。……そ、そのような。夕陽に焼かれた頬を晒して、そう呟き、己の膝先に目を落とす。その真田の頭に手を伸ばして、赤い髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。冗談だ、本気にするな。その手首を体温の高いてのひらがつかまえた。
……某の槍には某の名前が。……ガキか。ぷっと吹き出すと、手首をつかまえたてのひらに力がこもる。ガキと申されてもせんないこと、ようものをなくすこどもであった故習慣になってござる。赤い目が伊達を捉える。充血している。夜も寝ずに駆けてきたというのは本当であろう。手首は離されることがない。火傷をしてしまいそうだ、と伊達は思う。時折そういうことがある。ずっとこうしていると、じりじりと肉から焼けて痕になる。軽い火傷のような症状である。重たいものではないが、ふとしたときにひりひりと痛んだ。……おい。てのひらをほどこうと手を引くと、ますます力が込められる。……よう、ものをなくすのは今でも変わりませぬ。だから、なに。墨をお貸し願えぬだろうか。話が見えないが、この男の中では繋がっているのだ。伊達は、き……と呟こうとしてその言葉を喉の奥に押し込んだ。まばたきの合間にも真田の目はますます赤くなっている。
真田のてのひらが小袖の纏わりついたふとももに至るにあたって、伊達は足をばたつかせた。抗議のつもりだったが真田は言うことを聞かない。目を押さえていた腕を上げると、やはり真田の手の形に皮膚が少し焼けている。膝からぐっと折り曲げられ、裏側までしげしげとその感触を確かめられた。やはり皮の、ピンと張ったのがようございますな。そこをさすりながらぼそりと呟かれた言葉に、伊達は小さく悪態をつく。それに、そうひとの目に晒すところでもございますまい。濡れた穂先が皮膚に落とされる。するするとそれが滑ってゆく感触に、奥歯を噛んだ。まだ陽が沈んで間もない。薄いあかりが板間を光らせている。ももを押さえつけている真田の手がするすると足の付け根に向かう。……おい。あつうございますか、少し汗が。もう、書き終わったのか。書き損じてしまい申した。思わず足を振り上げその肩を蹴りつけた。半身を起こし、板間にしたたかに頭をぶつけて呻いている様子を眺めおろす。確かに太腿には朱墨で男の名前が書かれている。十分じゃねえか。苦いものを噛む気持ちでそう呟く。いや、折角にござる故もう少し大きく書けばよかったなと。死ねよ。