白に帰す
やわいベッドの感触を手にする。かすんだ瞳が映す自分の黒い左手は、いくつも染みの滲んだ淡いいろのシーツをぎゅっと掴んでいた。くしゃくしゃになって、すでに用をなされていないそれ。きっとあの染みは自分が、そしてあのあたりのは彼がつけたのだと、昨晩のことをはたと思い返す。しかしそのほとんどはあの男の体液だ。ハ、淫乱め。汗で落ちた前髪、たやすく跡の残る白い肌、歯形のちがう噛み跡だらけの首元。そのどれもが網膜にじいっと焼き付いて、スペインをとらえてはなさない。
窓側に向けた背中に差す日差しが、もうすっかりあつくなっている。きっともう日も高いのだろう。防音に加工された窓越しに、太陽の光が黒い背中へ落ちる。肩甲骨のあたりから一筋汗が垂れた。それがシーツに落ちて、また新たな斑点が滲む。<br>
起きがけの日差しを、彼はあまり好まない。ウェーブがかった前髪がぴったりと額に貼りついている。どうにかシャワーを浴びたいが、しかし体はどうにも動く気をおこさない。あつい、と声もなくくちびるが空をなぞる。
気が付くと男がいたはずのシーツの上に、左の手をするすると伸ばしていた。昨晩そこにあったはずの体温は、もう手のひらにのぼってこない。当たり前だ。自分があのひとよりもはやく起きたためしなどない。ましてやあのひとが昼にのっそりとおきてくることなど。毎々のことだが、やはりそういうことを思い知らされては、胸が重い。そういうことを考えながら、スペインの意識の底に沈んでいた体はゆっくりと、覚醒しはじめた。頭に響く栗の匂いとホテルむきだしの下劣なシーツ。今日もひどい朝だ。最悪の目覚めで、一日が始まる。週に幾度スペインは、こうしてホテルで朝を迎えている。
うっとおしくはりつく前髪を億劫にかきわけて、スペインはようやくベッドを下りた。途端、便所臭いベッドの匂いに吐き気がおそってくる。いつものことだ。そう片付けて、スペインは力いっぱいにカーテンを引いた。薄い緑色のカーテン。いまいましい。それはあの男の瞳の色と寸分違わぬ。やつを思い出して、ひどく不愉快だ。スペインは、腹立ちまぎれに絨毯に、ペッとつばを吐き捨てた。
起きていたんだな、グーテンモルゲン。突然、あるはずのない声が降ってきて、おぼえず肩が震えた。続いてバタンとドアが閉められる。たちこめるボディーソープの香り。ひとたび、夢かとそう考えた。この背の向こうにあのひとがいる?色事のあと、けして顔を合わせることのなかった彼が、こうして自分の背中をじっと見つめている?まるで背中が焼かれるような思いである。意識を覚醒させてからようやっと、体中に血が駆け巡ってゆく感覚を、スペインは得た。
朝食は?ドライヤーの音にまじって、そう声がする。スペインはドイツに背を向けたままの姿勢でベッドに腰かけた。いや、まだやけど。汗と体液でごわごわと指に絡み付く髪を掻く。どうにか風呂に入らねばならない。そう思いながら、サイドテーブルの上に置かれた目ざまし時計に目をやる。十一時十八分。もうすっかり朝食ではなく、昼食の時間帯である。
ドイツはまだ朝飯食うてへんの?ああ、というか食べられそうにないな。今日も忙しいんや?まあ、そこそこに。ハハ、今日は誰なん、イギリス?それとも、他の男かいな?
我ながら底意地が悪いと思った。きっと彼は背中の向こうで固まっているにちがいない。口元がゆがむのをおさえるのに、スペインは精一杯である。かすかな笑い声が、彼のドライヤーの音にまじって消える。なあ、どっち?なんやったら俺、今からもっかい相手したってもええねんで?
もちろん選ばれるとは、思ってはいたわけではない。どういう神経組織をしていれば欠陥だらけのあの男を愛するに至るのか自分には知るよしもないけれども、どうせ彼はあの男を選ぶので。それだけはスペインにさえわかっている。だから、とりわけて衝撃を受けたとか、そういうわけではないのだ。悔しいとすら思わなかった。ただ、再び思い知らされただけ。自分があの男の身代りにしかなれないことを、悟らされただけ。いくら促そうが、返ってくる答えは、けして「ja」とはなりえなかった。
そんなあの男が大事なん?自らの惨めったらしさに、喉を鳴らしてくっくと笑う。実に滑稽である。開いた拳が震えている。昨日たしかに彼の身体の線をなぞったはずの手。彼の中に、侵入したはずの指。それらはたしかに自分の目の前にあるのだ、それなのに。おれにはこのひとの身体すら、支配できない?
ふと気が付くと部屋はしんとして静かだった。振り返るとドライヤーのコンセントは引っこ抜かれて、無惨にも机上に伏している。そうして次にドイツの姿を探す。目の端にうつったスーツの裙。いつのまにかドイツはもうすっかりスーツを着込んでしまって、薄らと白みがかった金の髪を後ろになでつけている最中であったらしい。相変わらず手早いことだと、まるで他人ごとのように頭の隅のほうで思う。スペインのむき出しの黒い肌は、まだ汗でしっとりと水分の膜を張り巡らせている。よっこらせ、っと。コンドームの袋の切れ端や菓子の滓、それからところどころ染み込んでいる体液など、そういうものでまみれた絨毯の上に足をつける。ろくに掃除もされていないらしい。そのことにはじめて気づいて、また、一夜も過ぎたあとでようやっと気がついた昨晩の己の獣のような淫欲に驚かされた。もともと衛生面にはある程度頓着する方であるはずの自分が、このひとを前にして衛生さなど考えられぬまで理性の淵に追いやられている。恐るべき、と、ふと身体がこわばる。今まで幾多にわたってこの男と身体を溶かしておきながら、いまさら、この男に対する危機意識をおぼえている。浅はかなものだ。そう考えながら、足は風呂の方へと向かった。もうすっかり準備を済ませてしまったドイツの隣を無言で過ぎる。なんやめかしこんでもうて、あれと会うの相当楽しみなんやなあ。会ってもどうせヤるだけちゃうん?すれちがいざま、そういう皮肉を詰めたいやらしい声を、ドイツの背中に突き刺してやった。否、そういうことばしか出なかった。あの男に勝てない自分。彼の心を思うまま支配するあの男。それはひどくスペインの憎悪を奮い立たせていた。
……ほな別に俺でもええやんか。ふと喉先へと出かかった鼻にかかったような声を、スペインは必死の思いで飲み込んだ。皮肉まじりのつもりが、まるで慘めたらしさを匂わせることになってしまう。ただでさえ、きもちはもうすっかり女々しいのに。ぐるぐると思考を巡らせていると、不意に目の前がぼんやりとゆがみはじめた。風呂場のドアノブに手をかけようとして、その手は空を掻く。眼球の裏がどうにもあつい。どうしておれは、こんな春売り男のために泣かねばならぬのだ。そう思うのに、下まぶたは水分を溜めてどんどん重くなっていく。
もう1秒遅ければ、きっと涙はこぼれていたに違いない。その前に彼が部屋を出て行ってくれてよかったと、思う。手探りでようやくドアノブにかけた手を、スペインはゆっくりと引いた。まだ室内にこもっていたなまぬるい湯気が、スペインの首筋をソッと撫でる。ソープの甘い匂い、そこにまざるかすかな精液の匂い。