それは捨てるではなく、
「俺こないだ脱童貞したしぃ」
ドラム缶の上で発言した少年の声はいやに大きく響いた。少年が尻をずらす度にドラム缶の表面を侵す赤茶色の鉄錆が少年のジーパンに、じゃりじゃり、と音を立てながら擦りつけられていた。
青葉は奇妙なものを見るような表情でひょい、と片方の眉を持ち上げ、黒ずんでゆくズボンを履いた少年を見る。身長はまぁまぁ、顔も、まぁまぁ。最近彼女が出来たと言っていたが、どうやらその彼女と一線を越えることが出来たのだろう。
「てめーうぜー」「自慢かよしね」「ヒヒッ」「調子のってんじゃねーぞ俺だってすぐ...」
ばらばらの位置に座っていた仲間の少年達が、一斉にたった一人へと意識を向け、暴言を吐いた。黙っている者も少しはいたが、黙っている者にも彼女がいることを皆は知っている。
つまり「自慢したから」絡まれるのであり、また、「やっかむ立場であるから」文句を言うものもいるのである。
自慢げに「脱童貞」を口にした少年は、すぐに周りの仲間達の手によって制裁を受けた。愛情と応援が半分、もう半分はあまり褒められない願望も込めて。「いたいいたい、ギブギブ!」少年はすぐに音を上げた。
「やめてやれよ、やっかみは」
「んだよ青葉-、お前だってDTじゃんー」
「うん、そうだけど」青葉は笑った。
小首を傾げながら青葉は笑う。青葉は外見だけで言えばまだ小学生にも中学生にも、言えば少女のようにも見える顔をしている。青葉の笑顔が、仲間達は好きだ。
ただし、少年達が好みに思うのは青葉のそうした外見であって、青葉の中身ではない。青葉の中身を知っている仲間達は、外見に対する感情とは全く違う好意を青葉に抱いている。決して「可愛い」と思う類のものではない。仲間として青葉を気に入っているのだ。性的対象として青葉を見ているわけではない。
「童貞なんてそのうち捨てるだろ?」
「すてねーかもしれねーじゃん」
「それってお前自分で言ってて悲しくない?」
「うっせぇよ」
「まぁだから、脱童貞したいかしたくないかって言えば、そりゃとびっきりの美人を相手にお願いしたいとは思うけど、今は別に、無理なら無理でって感じでさ」
「結局無理なんじゃん」仲間の一人がつまらなさそうに呟いた。
「そんな風にひねたこと言うから女にもてな......いててててっ...ちょ、たんま!いたいって!まじでキツイっ!」青葉にヘッドロックがかかった。
「青葉さー、じゃあお前......」
仲間の一人が、少し遠くから青葉に笑いかけて言う。
「はぁ?嫌だよ」
青葉はなんとか外したヘッドロックで髪をぐちゃぐちゃに乱したまま、顔を顰めた。
随分と前から使われていなかった倉庫の中は電気が渡っておらず暗い。小さな窓は切り取ったような濃紺色の空を浮かべていた。
少年達のポケットや手には青い布があった。
「......ってわけなんですよ、帝人先輩」
「え、なんだっけ?もういっかい言って貰える、青葉君」
クラス委員会が終わったばかりの教室で、帝人はまだノートにメモを取っている最中だった。
「もーいいです」
「ごめんごめん!ちょっと待ってよこれ、忘れちゃう前に......」
「いいですって。どうせどーでもいい世間話でしたから」
青葉は子供らしく頬を膨らませて目線を逸らす。けれど帝人の側から離れるわけでもなく、帝人の作業が終わるのをその場で待っていた。
下校をどうするか、杏里が少し迷っている仕草で帝人を見つめている。帝人はノートに夢中だから、青葉が帝人の代わりに杏里に対して笑って見せた。
「帝人先輩-このままだと杏里先輩先に帰っちゃいますよー?」
「えっ!...ちょっ...あの!」
杏里の名前を持ち出され、帝人はすぐさま顔を上げた。
自分の時は会話していても顔を上げなかったくせに、と青葉は思ったが、寧ろ帝人にはこうあっていて欲しいのだ、と訳の分からない満足感を抱いている青葉も存在した。
結局、帝人は青葉を半透明なものとして見ているのだ。青葉の後ろが常に透けて見ている。青葉に気付いていないわけではないが、目を凝らさなければ青葉の後ろにあるものがそのまま見えている、そんな存在だ。
希薄な存在であるのとも違うのだろうが、青葉はそんな扱いを受ける自分が嫌いではなかった。なにせ、帝人にとってそうした存在であることを望んだのは青葉自身であったから。
「......いや、ごめん。園原さん」
帝人は杏里に「先に帰って良い」とも「もう少し待って」とも言わなかった。
帝人はこうして肝心な結論を他人に預ける時がある。青葉は帝人のそんなところも、嫌いではなかった。
「杏里先輩どうします?このまま黒板にあること全部ノートに取るつもりならまだ少しかかると思いますから、いっそ先に帰っちゃっても良いと思いますよ?俺は先輩に用があるから残ってますし」
「......え、......そう、なんだ。じゃ......じゃあ...」
青葉は杏里に帰れとは言わない。ただ、杏里が鞄を掴むタイミングを用意してやっただけのことだ。そして杏里は女性らしい細く綺麗な指で鞄を掴み、帝人に一言二言声を掛けて教室を後にした。
「うわー本当に帰るあたり、脈なしですねぇ」
「うるさいよ、青葉君」
「先輩がちゃんとアピールしないからじゃないですか?お膳立てされなれてるとあっという間に意外なキャラクタに持ってかれちゃいますよ?」
「うるさいってば......」
帝人は黙々とノートを取り続ける。青葉は溜息を吐くと黙って、帝人のノートを見つめた。帝人の性格がにじみ出たような、荒々しさを含む字が白いノートに次々に埋められてゆく。
きょろり、と青葉の目が教室内を見渡した。三年生のクラス委員長が帝人を気に掛けるようにしていたが、やがて「黒板消しておいてね」と言ってその場を去った。帝人と青葉以外、誰も居なくなったからだ。
「帝人先輩はクラス委員長とかに立候補しちゃうんですか?」
「まさか、クラス委員になっただけでも快挙だよ」
「へぇ、クラス委員なんて、ダラーズに比べたらずっと簡単そうですけど」
クラス委員長の任期は一年間だ。通例では二年生の後期で決定し、三年生の前期で終了する。夏休みが終わればすぐにでも自薦・他薦により選出される筈だ。
青葉は帝人がクラス委員長になりたがるとは思わなかったが、なってもおかしくはないのかもしれない、とは思っていた。だから簡単に否定を口にした帝人を少しだけ意外に思う。
「それに、園原さんがいたから、僕はクラス委員に立候補したんだよ」
「......なにそれ、惚気ですか?」青葉は嘲笑のような顔で訊ね返す。
「単なる事実」
帝人はあくまで淡々とノートを取っていた。時折黒板を見て、中身をそのまま写したり、注釈を加えたりしている。
青葉は呆れた。大人数に迷惑が掛かるとでも思っているのか。クラス委員会での出来事など簡単に纏めてしまえば良いだけなのに、丁寧に纏め上げられたノートは精々一度ホームルームで連絡される程度の内容だ。手間暇をかける必要性を感じないのに、この人は。
ドラム缶の上で発言した少年の声はいやに大きく響いた。少年が尻をずらす度にドラム缶の表面を侵す赤茶色の鉄錆が少年のジーパンに、じゃりじゃり、と音を立てながら擦りつけられていた。
青葉は奇妙なものを見るような表情でひょい、と片方の眉を持ち上げ、黒ずんでゆくズボンを履いた少年を見る。身長はまぁまぁ、顔も、まぁまぁ。最近彼女が出来たと言っていたが、どうやらその彼女と一線を越えることが出来たのだろう。
「てめーうぜー」「自慢かよしね」「ヒヒッ」「調子のってんじゃねーぞ俺だってすぐ...」
ばらばらの位置に座っていた仲間の少年達が、一斉にたった一人へと意識を向け、暴言を吐いた。黙っている者も少しはいたが、黙っている者にも彼女がいることを皆は知っている。
つまり「自慢したから」絡まれるのであり、また、「やっかむ立場であるから」文句を言うものもいるのである。
自慢げに「脱童貞」を口にした少年は、すぐに周りの仲間達の手によって制裁を受けた。愛情と応援が半分、もう半分はあまり褒められない願望も込めて。「いたいいたい、ギブギブ!」少年はすぐに音を上げた。
「やめてやれよ、やっかみは」
「んだよ青葉-、お前だってDTじゃんー」
「うん、そうだけど」青葉は笑った。
小首を傾げながら青葉は笑う。青葉は外見だけで言えばまだ小学生にも中学生にも、言えば少女のようにも見える顔をしている。青葉の笑顔が、仲間達は好きだ。
ただし、少年達が好みに思うのは青葉のそうした外見であって、青葉の中身ではない。青葉の中身を知っている仲間達は、外見に対する感情とは全く違う好意を青葉に抱いている。決して「可愛い」と思う類のものではない。仲間として青葉を気に入っているのだ。性的対象として青葉を見ているわけではない。
「童貞なんてそのうち捨てるだろ?」
「すてねーかもしれねーじゃん」
「それってお前自分で言ってて悲しくない?」
「うっせぇよ」
「まぁだから、脱童貞したいかしたくないかって言えば、そりゃとびっきりの美人を相手にお願いしたいとは思うけど、今は別に、無理なら無理でって感じでさ」
「結局無理なんじゃん」仲間の一人がつまらなさそうに呟いた。
「そんな風にひねたこと言うから女にもてな......いててててっ...ちょ、たんま!いたいって!まじでキツイっ!」青葉にヘッドロックがかかった。
「青葉さー、じゃあお前......」
仲間の一人が、少し遠くから青葉に笑いかけて言う。
「はぁ?嫌だよ」
青葉はなんとか外したヘッドロックで髪をぐちゃぐちゃに乱したまま、顔を顰めた。
随分と前から使われていなかった倉庫の中は電気が渡っておらず暗い。小さな窓は切り取ったような濃紺色の空を浮かべていた。
少年達のポケットや手には青い布があった。
「......ってわけなんですよ、帝人先輩」
「え、なんだっけ?もういっかい言って貰える、青葉君」
クラス委員会が終わったばかりの教室で、帝人はまだノートにメモを取っている最中だった。
「もーいいです」
「ごめんごめん!ちょっと待ってよこれ、忘れちゃう前に......」
「いいですって。どうせどーでもいい世間話でしたから」
青葉は子供らしく頬を膨らませて目線を逸らす。けれど帝人の側から離れるわけでもなく、帝人の作業が終わるのをその場で待っていた。
下校をどうするか、杏里が少し迷っている仕草で帝人を見つめている。帝人はノートに夢中だから、青葉が帝人の代わりに杏里に対して笑って見せた。
「帝人先輩-このままだと杏里先輩先に帰っちゃいますよー?」
「えっ!...ちょっ...あの!」
杏里の名前を持ち出され、帝人はすぐさま顔を上げた。
自分の時は会話していても顔を上げなかったくせに、と青葉は思ったが、寧ろ帝人にはこうあっていて欲しいのだ、と訳の分からない満足感を抱いている青葉も存在した。
結局、帝人は青葉を半透明なものとして見ているのだ。青葉の後ろが常に透けて見ている。青葉に気付いていないわけではないが、目を凝らさなければ青葉の後ろにあるものがそのまま見えている、そんな存在だ。
希薄な存在であるのとも違うのだろうが、青葉はそんな扱いを受ける自分が嫌いではなかった。なにせ、帝人にとってそうした存在であることを望んだのは青葉自身であったから。
「......いや、ごめん。園原さん」
帝人は杏里に「先に帰って良い」とも「もう少し待って」とも言わなかった。
帝人はこうして肝心な結論を他人に預ける時がある。青葉は帝人のそんなところも、嫌いではなかった。
「杏里先輩どうします?このまま黒板にあること全部ノートに取るつもりならまだ少しかかると思いますから、いっそ先に帰っちゃっても良いと思いますよ?俺は先輩に用があるから残ってますし」
「......え、......そう、なんだ。じゃ......じゃあ...」
青葉は杏里に帰れとは言わない。ただ、杏里が鞄を掴むタイミングを用意してやっただけのことだ。そして杏里は女性らしい細く綺麗な指で鞄を掴み、帝人に一言二言声を掛けて教室を後にした。
「うわー本当に帰るあたり、脈なしですねぇ」
「うるさいよ、青葉君」
「先輩がちゃんとアピールしないからじゃないですか?お膳立てされなれてるとあっという間に意外なキャラクタに持ってかれちゃいますよ?」
「うるさいってば......」
帝人は黙々とノートを取り続ける。青葉は溜息を吐くと黙って、帝人のノートを見つめた。帝人の性格がにじみ出たような、荒々しさを含む字が白いノートに次々に埋められてゆく。
きょろり、と青葉の目が教室内を見渡した。三年生のクラス委員長が帝人を気に掛けるようにしていたが、やがて「黒板消しておいてね」と言ってその場を去った。帝人と青葉以外、誰も居なくなったからだ。
「帝人先輩はクラス委員長とかに立候補しちゃうんですか?」
「まさか、クラス委員になっただけでも快挙だよ」
「へぇ、クラス委員なんて、ダラーズに比べたらずっと簡単そうですけど」
クラス委員長の任期は一年間だ。通例では二年生の後期で決定し、三年生の前期で終了する。夏休みが終わればすぐにでも自薦・他薦により選出される筈だ。
青葉は帝人がクラス委員長になりたがるとは思わなかったが、なってもおかしくはないのかもしれない、とは思っていた。だから簡単に否定を口にした帝人を少しだけ意外に思う。
「それに、園原さんがいたから、僕はクラス委員に立候補したんだよ」
「......なにそれ、惚気ですか?」青葉は嘲笑のような顔で訊ね返す。
「単なる事実」
帝人はあくまで淡々とノートを取っていた。時折黒板を見て、中身をそのまま写したり、注釈を加えたりしている。
青葉は呆れた。大人数に迷惑が掛かるとでも思っているのか。クラス委員会での出来事など簡単に纏めてしまえば良いだけなのに、丁寧に纏め上げられたノートは精々一度ホームルームで連絡される程度の内容だ。手間暇をかける必要性を感じないのに、この人は。
作品名:それは捨てるではなく、 作家名:tnk