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それは捨てるではなく、

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 まして、帝人がこうした丁寧さを見せるのが常ではないことを青葉は知っていた。場合によって帝人は端折る。今回これだけ丁寧にノートを取っているのも、帝人が学業に集中したいという自己本位な願望によるものに違いなかった。

 青葉は帝人の横顔を見つめる。この凡庸な少年のどこに、青葉が怯えてしまう何かが眠っているというのだろうか。
 しかし青葉はもう、帝人に内在している「猟奇」に気付いている。見て感じ取っている。帝人は確かに凡庸ではない。凡庸に見えるのはそれ自体が偽装に他ならない。擬態の特異な昆虫を思い浮かべて、青葉は少しだけ気分が悪くなった。

「よし、終わり......」
「消しますよー?」
「あ!有り難うっごめんね!」

 黒板消しを片手に、青葉は文字を消してゆく。クリーナー自体が汚れているせいか、綺麗にはリセットしきれない黒板が残った。

「ああそうだ、先輩」
「なに?」

 鞄にノートを詰めている帝人に、青葉は軽い足取りで近づく。
 近づいた青葉にようやく帝人が顔を向けると、ちゅ、と軽い音がして唇が触れた。

「ご褒美」
「......な......なんで僕が貰うの?」
「違うでしょー。ご褒美を貰ったのは俺でしょー。先輩とのキス」
「うわー...」

 青葉は軽い足取りと軽い口付けとに見合う軽さで言った。帝人の顔が奇妙に歪む。迷惑だとか、気持ちが悪いだとか、そういう言葉が出てくるだろうと安易に想定させる表情を。

「青葉君って時々本当にどうしてってくらい可愛いこというよね」
「え、惚れちゃいそうって顔だったんですかそれ?」
「まさか。気持ち悪いって思ってるよ」
「酷いなー」
「男なのに可愛い君と、君が女の子だったら惚れちゃってるかもしれない自分が気持ち悪い」
「うわー......先輩ってほんと、気持ち悪い人ですね。無遠慮に僕の中に入ってくるんだから」
「うわー...またそんな...」
「うわーうわーって、先輩こそまたそんな...」

 お互いに顔を顰め合って、少し真顔になって、それから吹き出して、二人も教室を出た。二人の間にあったことは単なるボディタッチを含むじゃれあいでしかなく、至って日常の一部だったから二人の関係も全く変化を見せることがない。

「ああそうだ、先輩」
「なに?」

 帰り際、校門を出たところで青葉は思い出したように言う。

「今度先輩とセックスさせてもらってもいいですか?」
「......え?やだよ」
「脱童貞したいんですよ、僕」
「だったらしなよ、勝手に」
「先輩と」
「嫌だって」
「お願いします」
「しつこいよ」

 まるで学校帰りにクレープ屋さんに寄りたいとでも言うような調子で、青葉は言った。帝人は言葉の内容が異常だと分かっていても、その青葉の調子の軽さに誤魔化されて青葉を上手く叱ることが出来ないでいる。

「大体なんで僕?」
「いやー......だって」
「納得出来る理由があるの?」
「......だって、」

 理由、それは青葉にも明確な形として存在していない。
 言えば、帝人の精神を取り込むことを諦めた青葉がせめて肉体だけでも取り込むことが出来れば、精神と肉体は繋がっていて自分のものになるのではないかと、そうした理想論によるものだった。
 帝人はブルースクウェアの仲間ではない。青葉からすれば、自分の手駒にしたかった人間なのだ、本来は。
 それが今、帝人の手駒になっているのは青葉の方だった。そしてなにより厄介なのは、そんな自分が思いの外好きだと思える青葉自身だ。

 なんでもしてあげたい、とは少し違う。けれど、出来ることでしてもいいと思うことならばしてあげたいくらいには思う。そして青葉が帝人に出来ることは多かったが、出来ないことは本当に少しのことのような気がしていた。

 打算はある。ブルースクウェアを使わせておいて、その実ダラーズを率いる帝人で楽しもうという、愉快に直結した純粋な打算が。帝人はていの良い玩具だ。玩具の筈だったのだ。

「僕、帝人先輩のこと、好きですよ?」
「......ありがとう」
「そーいう、どーでもよさそうに言うところとか」
「嬉しいよ?」
「当然のこと言われてると思ってる癖に。でも、良いんですよ、僕は"当然"帝人先輩が好きなんで。だから、なんでしょうね、脱童貞したいけどその辺の女の人にお願いするより帝人先輩との方が嬉しいだろうなーって、そう思ったんです」

「比較による結果なんて、失礼だよ」帝人は少しだけ青葉を睨んだ。

「でも、僕が"童貞を捧げます"って先輩に言ったとしたら、帝人先輩はそれも当然のように受け入れてくれる気がしたんですけど、違いますか?」
「......うーん」

「童貞って連呼しないでよ」そう言う帝人に、青葉はそっと片手を絡めてみる。振り払われる。もう一度、絡めてみる。また払われる。けれど、公道から少し外れると、指は解かれなくなった。

「なんでしょうね、僕は今のままの狡い先輩が好きですよ」

 青葉は絡める指に力を込めた。





「ってわけで......俺、脱童貞したから」

 吹きさらしのビルの上で、星空を天井にした少年達は動きを止めた。
 青葉の一言に各々が好き勝手な場所に座っていた仲間が呆然とし、一秒、二秒、三秒めには喚き始めた。

「おめー早すぎだろ!」「ヒヒッ」「そのうちとか言っといて、あれから何日しか経ってねーよしね!今すぐしね!」「なんなの相手はお前に騙されてんの?」「青葉に負けたー!」

「まぁ一つ、訂正しとくけど」青葉は小首を傾げて、少年達の愛する笑みを浮かべて言った。

「童貞はその"うち捨てる"っていうよりも、捧げた方が手っ取り早いな」
作品名:それは捨てるではなく、 作家名:tnk