きっと、二度と這い上がれない。
臨也は新宿の一等地にある事務所で、大きな硝子の向こう側にある夕焼けを背にしながら言う。
「大丈夫だよ」「安心していい」「ねぇ」「君には俺がついてるからさ」「だから君には、その権利がある」「君は本当にラッキーだ」
逆光になった臨也の表情はぎりぎり認識出来る程度だった。影の中に白い歯が覗くと、その部分だけが綺麗に笑みの形を浮かべていることが分かる。
帝人は全身に真っ赤な縁取りを施している臨也を見つめていた。
驚いている風でもない、だからといって冷めている風でもない。落ち着いてはいたが、臨也の発言を一つ一つ丁寧に拾い上げて咀嚼するような真剣な瞳で臨也を見つめていた。
「幸運(ラッキー)......ですか」
「そうだよ、君は特別」
「......特別だから、権利がある?」
「その通り!」
臨也は上機嫌に笑っていた。オウム返しである帝人の言葉を強く肯定するように頷き、両手を広げて見せてやる。臨也の人差し指にはまる指輪が一瞬、視界に痛い程に光り、帝人の光彩を抉る。
眩しさから思わず顔を顰めた帝人が、は、と意識をもう一度臨也に向けた時、帝人のすぐ目の前にまで臨也は迫っていた。移動は瞬間で一連の光景を見つめていた帝人自身、臨也が二人の間にあったデスクを飛び越えたのか避けて来たのか、理解が出来ていなかった。
「この折原臨也を、君は"ある程度無料で"使えるんだから」
近づいてきた端正な顔の唇が帝人の唇に触れ、頬に触れ、額に触れ、最後に帝人の鼻頭をかしりと噛んで離れていった。離れる臨也から攻撃的な香りがする。帝人は臨也のつける香水をいつでも「攻撃的」だと思った。
鼻孔に入りこんだ瞬間は刺激臭だと思わせる鋭さがあるが、鋭利さは少し経つと切っ先を潰し、尖った先端がぼけて消えてゆく。残るのは何故か「甘かった」と後を引くような感想だけで、確かに鋭かった筈なのにという矛盾に首を傾げるような香りなのだ。
臨也に非常によく似ている。帝人は臨也の臭いが好きではなかった。静雄ではないが、気分を悪くさせるような臭いだ。けれど、帝人はそんな臨也の臭いが嫌いでもなかった。意識の最後を塗りつぶす甘ったるさが、もう一度あの香りを確認したいと思わせるような魅力を持っているからだ。
帝人は思わず臭いの元ではないかと疑う臨也の首もとを凝視する。黒いコートに、灰色とも褐色とも判断のつかない薄い色のファーがついていた。帝人が臨也の事務所を訪れる時は常に少しだけ低めに設定されている空調で、臨也の格好に帝人が違和感を覚えることはない。
夏でもコートを着用する臨也の、その理由が袖もとに隠されているナイフのせいだと、帝人はもう充分に理解していた。
「......在る程度、でも嬉しいです」
「いやだなぁ、なにその顔」
臨也は、くすくす、と空気そのものを擽るように笑う。歯を見せ、瞼を弓なり閉じるその表情は口にした内容に不似合いな、とてもすがすがしい笑顔だった。
「変な顔。もっと可愛い顔をしてご覧よ。俺はいつも"使う側"で、"使われる側"になってるだけでも途方もなく献身的に感じちゃうんだからさ」
「そして俺がこんな説明をするのももう、何度目だっけ?」臨也は小首を傾げ、前屈みになって上目に帝人を見つめた。両手をポケットにつっこみながら言う言葉に帝人は僅かに緊張する。
ポケットから出た瞬間にその手がナイフを袖から取り出したらどうしよう、と危惧してしまう。
開いた帝人の瞳が恐怖から僅かにぶれた。臨也は帝人の顔を注意深く見つめていたせいで、帝人の無自覚な素直さにも気付いてしまう。
恐怖を覚えたのか、そう思うと臨也は落胆した。
「つっまんないなぁ、帝人君なんか......」
臨也は一度言葉を句切った。
例えばここで「大嫌い」と言えば帝人は唇を噛み締め、俯いて肩に掛かった鞄の肩紐を強く握って数秒後には部屋を飛び出すだろう。
「どうでもいいし、興味がない」と言えば、帝人は臨也を憎しみを込めた目で見つめるかもしれない。
臨也は一通り帝人の反応を思い浮かべて、結局口元に柔らかい笑みを浮かべた。重心の位置を正し、まっすぐに立って帝人を少しだけ見下ろしながら、なるべく優しい笑みを意識する。
「帝人君なんか、そういうところも俺は好きだけどね」
「......なんですか、それ」
ふい、と顔を逸らした帝人が、瞳だけを臨也にちらりと向ける。臨也の想像とは違う行動だったが、臨也が満足する態度に出たことだけは確かだった。
「ねぇ帝人君、泣いて、縋って、俺だけだって言ってよ常に、常に」
(常に?)帝人は眉を顰める。泣きすがるようなことだってしたことがない。それを常に、と言う臨也は帝人にとって奇怪に映る。突然どうしてしまったのだろうかと、帝人は思った。
「そうしてくれたら、俺はきっと安堵して......安心して、ほっとして、感動して......」
それから、それから、言葉を続けて臨也はうっとりとした表情を浮かべた。その視線が、帝人を映しながら少し遠くを見つめている。
「きっと、そうしたら俺は完全に君を手に入れたと思って、二度と君に興味を持たなくて済むのか、それともそんな態度の君にもどうしようもなく惹かれるのか、それが凄く凄く、俺は知りたいんだぁ」
年甲斐もなく可愛らしい、純朴な笑顔だった。帝人は臨也が帝人の背後に見ているものを思い浮かべる。
おそらくは、臨也に縋り付いて泣いている、帝人を。
帝人は一気に夢から現実に醒めた気がした。気分が悪かった。自分じゃない誰かを見ているような臨也に苛立ちを覚える。それが幼稚な嫉妬なのだということも、数秒後には理解していた。思わず眉間に寄った皺が険呑なものに変わる。
「......なぁんて、ね?」
帝人が「もう帰ります」と言うよりも早く臨也が言った。
(からかわれた?)帝人の腹の奥が熱くなる。子供だから。同性だから。思い上がっているから。特別だとか言っておいて、からかわれたのか。怒りで耳までもが熱かった。
帝人は唇をきりり、と噛み締めるとすぐさま踵を返した。帝人のアパートとは違ったデザイン構造をしている臨也の事務所は少なからずストレートで出入り口までは向かえない。帝人はわざわざ臨也の目の前を横切って、リビングと出入り口を区切る柱の近くまで移動しなくてはならなかった。
臨也は口角を上げたまま「ああ、失敗した」と思った。これは先程まで容易に出来た帝人の反応で、臨也自身あまり見たかった情景ではない。それなのに、ついつい、帝人をからかってしまった。帝人が臨也の世界を拒絶したいと思うような流れに変えてしまった。
失策だ。在る意味で、常に臨也は帝人によって失策し続けている。
褒めて、甘やかして、持ち上げて、溶かした帝人を臨也の型に嵌めるだけだ。それだけで帝人は臨也にとって都合の良い生き物になる。
その方法は臨也にとって単純明解で、失敗などしようのない経験値を臨也は携えている。難しくない。難しくないことの筈なのに、どうしても帝人相手には「難しくなる」のだ。
「大丈夫だよ」「安心していい」「ねぇ」「君には俺がついてるからさ」「だから君には、その権利がある」「君は本当にラッキーだ」
逆光になった臨也の表情はぎりぎり認識出来る程度だった。影の中に白い歯が覗くと、その部分だけが綺麗に笑みの形を浮かべていることが分かる。
帝人は全身に真っ赤な縁取りを施している臨也を見つめていた。
驚いている風でもない、だからといって冷めている風でもない。落ち着いてはいたが、臨也の発言を一つ一つ丁寧に拾い上げて咀嚼するような真剣な瞳で臨也を見つめていた。
「幸運(ラッキー)......ですか」
「そうだよ、君は特別」
「......特別だから、権利がある?」
「その通り!」
臨也は上機嫌に笑っていた。オウム返しである帝人の言葉を強く肯定するように頷き、両手を広げて見せてやる。臨也の人差し指にはまる指輪が一瞬、視界に痛い程に光り、帝人の光彩を抉る。
眩しさから思わず顔を顰めた帝人が、は、と意識をもう一度臨也に向けた時、帝人のすぐ目の前にまで臨也は迫っていた。移動は瞬間で一連の光景を見つめていた帝人自身、臨也が二人の間にあったデスクを飛び越えたのか避けて来たのか、理解が出来ていなかった。
「この折原臨也を、君は"ある程度無料で"使えるんだから」
近づいてきた端正な顔の唇が帝人の唇に触れ、頬に触れ、額に触れ、最後に帝人の鼻頭をかしりと噛んで離れていった。離れる臨也から攻撃的な香りがする。帝人は臨也のつける香水をいつでも「攻撃的」だと思った。
鼻孔に入りこんだ瞬間は刺激臭だと思わせる鋭さがあるが、鋭利さは少し経つと切っ先を潰し、尖った先端がぼけて消えてゆく。残るのは何故か「甘かった」と後を引くような感想だけで、確かに鋭かった筈なのにという矛盾に首を傾げるような香りなのだ。
臨也に非常によく似ている。帝人は臨也の臭いが好きではなかった。静雄ではないが、気分を悪くさせるような臭いだ。けれど、帝人はそんな臨也の臭いが嫌いでもなかった。意識の最後を塗りつぶす甘ったるさが、もう一度あの香りを確認したいと思わせるような魅力を持っているからだ。
帝人は思わず臭いの元ではないかと疑う臨也の首もとを凝視する。黒いコートに、灰色とも褐色とも判断のつかない薄い色のファーがついていた。帝人が臨也の事務所を訪れる時は常に少しだけ低めに設定されている空調で、臨也の格好に帝人が違和感を覚えることはない。
夏でもコートを着用する臨也の、その理由が袖もとに隠されているナイフのせいだと、帝人はもう充分に理解していた。
「......在る程度、でも嬉しいです」
「いやだなぁ、なにその顔」
臨也は、くすくす、と空気そのものを擽るように笑う。歯を見せ、瞼を弓なり閉じるその表情は口にした内容に不似合いな、とてもすがすがしい笑顔だった。
「変な顔。もっと可愛い顔をしてご覧よ。俺はいつも"使う側"で、"使われる側"になってるだけでも途方もなく献身的に感じちゃうんだからさ」
「そして俺がこんな説明をするのももう、何度目だっけ?」臨也は小首を傾げ、前屈みになって上目に帝人を見つめた。両手をポケットにつっこみながら言う言葉に帝人は僅かに緊張する。
ポケットから出た瞬間にその手がナイフを袖から取り出したらどうしよう、と危惧してしまう。
開いた帝人の瞳が恐怖から僅かにぶれた。臨也は帝人の顔を注意深く見つめていたせいで、帝人の無自覚な素直さにも気付いてしまう。
恐怖を覚えたのか、そう思うと臨也は落胆した。
「つっまんないなぁ、帝人君なんか......」
臨也は一度言葉を句切った。
例えばここで「大嫌い」と言えば帝人は唇を噛み締め、俯いて肩に掛かった鞄の肩紐を強く握って数秒後には部屋を飛び出すだろう。
「どうでもいいし、興味がない」と言えば、帝人は臨也を憎しみを込めた目で見つめるかもしれない。
臨也は一通り帝人の反応を思い浮かべて、結局口元に柔らかい笑みを浮かべた。重心の位置を正し、まっすぐに立って帝人を少しだけ見下ろしながら、なるべく優しい笑みを意識する。
「帝人君なんか、そういうところも俺は好きだけどね」
「......なんですか、それ」
ふい、と顔を逸らした帝人が、瞳だけを臨也にちらりと向ける。臨也の想像とは違う行動だったが、臨也が満足する態度に出たことだけは確かだった。
「ねぇ帝人君、泣いて、縋って、俺だけだって言ってよ常に、常に」
(常に?)帝人は眉を顰める。泣きすがるようなことだってしたことがない。それを常に、と言う臨也は帝人にとって奇怪に映る。突然どうしてしまったのだろうかと、帝人は思った。
「そうしてくれたら、俺はきっと安堵して......安心して、ほっとして、感動して......」
それから、それから、言葉を続けて臨也はうっとりとした表情を浮かべた。その視線が、帝人を映しながら少し遠くを見つめている。
「きっと、そうしたら俺は完全に君を手に入れたと思って、二度と君に興味を持たなくて済むのか、それともそんな態度の君にもどうしようもなく惹かれるのか、それが凄く凄く、俺は知りたいんだぁ」
年甲斐もなく可愛らしい、純朴な笑顔だった。帝人は臨也が帝人の背後に見ているものを思い浮かべる。
おそらくは、臨也に縋り付いて泣いている、帝人を。
帝人は一気に夢から現実に醒めた気がした。気分が悪かった。自分じゃない誰かを見ているような臨也に苛立ちを覚える。それが幼稚な嫉妬なのだということも、数秒後には理解していた。思わず眉間に寄った皺が険呑なものに変わる。
「......なぁんて、ね?」
帝人が「もう帰ります」と言うよりも早く臨也が言った。
(からかわれた?)帝人の腹の奥が熱くなる。子供だから。同性だから。思い上がっているから。特別だとか言っておいて、からかわれたのか。怒りで耳までもが熱かった。
帝人は唇をきりり、と噛み締めるとすぐさま踵を返した。帝人のアパートとは違ったデザイン構造をしている臨也の事務所は少なからずストレートで出入り口までは向かえない。帝人はわざわざ臨也の目の前を横切って、リビングと出入り口を区切る柱の近くまで移動しなくてはならなかった。
臨也は口角を上げたまま「ああ、失敗した」と思った。これは先程まで容易に出来た帝人の反応で、臨也自身あまり見たかった情景ではない。それなのに、ついつい、帝人をからかってしまった。帝人が臨也の世界を拒絶したいと思うような流れに変えてしまった。
失策だ。在る意味で、常に臨也は帝人によって失策し続けている。
褒めて、甘やかして、持ち上げて、溶かした帝人を臨也の型に嵌めるだけだ。それだけで帝人は臨也にとって都合の良い生き物になる。
その方法は臨也にとって単純明解で、失敗などしようのない経験値を臨也は携えている。難しくない。難しくないことの筈なのに、どうしても帝人相手には「難しくなる」のだ。
作品名:きっと、二度と這い上がれない。 作家名:tnk