きっと、二度と這い上がれない。
臨也は他人に左右される自分が面白くない。だから、帝人も他人に左右されれば良いと勝手な意趣返しをする。その癖、不満そうな帝人を見ると余計に不満を覚えるのだから尚更たちが悪かった。
「帰って良いなんて言ってないよ」
帝人が出入り口に繋がった区画に足を踏み入れる前に臨也は帝人を壁に押し付けることに成功する。そもそも、型に掛けた布鞄がまずは失敗だ。臨也は教科書やノートが必要分だけ詰められている薄い鞄の一部を、手に掴んで引っ張るだけで帝人のバランスを崩すことが出来た。突然後ろへと引っ張られてバランスを崩した帝人は、たたらを踏むように身体を傾ける。
臨也はただ、開いた両腕と胸で帝人を受け止めるだけで良かった。そして、反動を利用し、目標物が逃げないようにすぐ側の壁に背中を打ち付けさせる。
鈍い音がした。感情からではなく肉体的な苦痛から顰められる帝人の顔を理解しておきながら、更に臨也は離した片手を帝人の首元に伸ばす。
「っ!」
細い指は綺麗に整った爪と、高価なシルバーの指輪を嵌めていた。その手が、ぐい、と帝人のノドに食い込むように抑え付けられる。帝人は息を求めるように口を開いた。
「気道は潰してない」臨也はにこりと笑う。
帝人は言われて気付くと、慎重に呼吸をした。
はあ、はぁ。
触れている臨也の掌に生を求める少年の息遣いが感じられた。首の動脈が強く躍動している。思わず、臨也の口元からはぁ、と熱っぽい息が零れ落ちた。
「俺はさぁ、基本的には犯罪者になりたくないんだよねぇ」
「なんでかわかる?」臨也は答えなど期待しないまま帝人に問い掛けた。
「他人のせいでなんで俺が犯罪者にならなきゃならない?勝手にやっててよ。特に殺人とか、冗談じゃない。俺は生きてる人間が好きだけど、敢えて死を選ぶような馬鹿に興味はないし、そんな人間の為に使う労力もないから死ぬならどうぞご勝手にって思うしねぇ」
「けど、」臨也は手に力を込めた。帝人が「ぐ、」と唸る。臨也の手の甲に震える帝人の指が触れた。
「今俺は、君のこの喉を捻り潰したいと思ってる」
臨也の告白と同時に帝人の指が、臨也の手の甲に食い込んだ。がり、り、強く、深く、帝人の爪が臨也の手の甲を傷つける。痺れるような痛みを覚えて臨也は帝人と同じく痛みから眉を顰める。
「......ひっどいなぁ帝人君」
どっちが、だ。帝人の瞳が、臨也を糾弾した。
「俺のこれは、愛だよ。君なら、君限定で、俺は殺人者になっても良いって言ってるんだ。これって相当、凄いと思わない?嬉しい?感じちゃう?
...............俺は、感じちゃうよ」
臨也が掌を開いた途端、帝人は、ひゅう、と喉を鳴らして呼吸を始めた。その姿から帝人に息を与えたのが臨也であるという妄想が連結し、臨也はまた、強く興奮する。
まるで自分が、帝人にとっての神になったような気がして。
「帝人君、......帝人君、みかどくん」
まだ苦しんでいる帝人に、臨也は口付けを強請る。何度も角度を変え、執拗に唇を求め、甘く、慰めるような、愛撫するような口付けを続けた。唾液で濡れた唇はしっとりと柔らかく、時折二人の粘膜が触れあった。
「ね、泣いて縋って?生きたいって言って。殺さないでって俺に懇願して。ちゃんとしがみついて、俺に生きることを許して下さいって、お強請りしてごらん?」
臨也の声はこれが狂行の直後の科白でなければ誰でも陥落するような、性的に低い声色だった。帝人も思わず、ぞくり、と身体を這う快感を覚える。
だが、それでも......
「貴方が......それをして、今...以上に、......僕に妄執するのなら」
条件を出した。
臨也の瞳が丸くなる。帝人の瞳は恐怖や苦痛や、あるいは唇への愛撫によって高揚した生理的な涙に濡れて扇情的だったが、その瞳の奥には臨也を取り込もうとする貪欲さがある。
これだから、これだから!臨也は脳内にあった少しの「まともさ」が振り切れるのを感じた。
帝人の料頬を片手で掴み、口を強制的に開けさせる。臨也も口を開いたまま、帝人の唇を貪った。滅茶苦茶にされている、という表現が最も似合う。帝人の舌や口内の粘膜は臨也の舌で乱暴に犯され、酸素すらが奪われた。
ん、ん、と喉で啼く帝人は鼻で必死に呼吸をするが、臨也も同じように鼻を、あるいは時折離した唇から乱れた声を出しながら呼吸をしているようだった。
何が臨也をこうしたのか、帝人には正確に判断することが出来ない。
ただ、時々見せる臨也のこうした臨也らしからぬ態度が帝人にとっては最も甘美な麻薬だった。
「ふっ...ぁ......」
唾液を飲む努力もせず、帝人は簡単に透明な液体を口の端から零す。臨也はそんな帝人の顔を暫く呆と見つめていた。
やがて臨也は双眸を細くし、淡々と言った。
「......君は、こうやって俺を喰らうんだ?」
帝人の熱が下がりきる前に取り出されたナイフは、その切っ先を帝人の喉に当て、そろりと撫でるように帝人の首元のネクタイにまで降りる。刃の無い方の一辺が帝人のネクタイの結び目をぴん、と引いた。
「食べるのは、俺だけにしておきなね。俺は多分、他との食べ合わせが良くないからさ」
なにを、どうやって、帝人は浮かんだ疑問を一蹴する。
分かっている。知っている。臨也の言う、言葉の意味を。結局臨也は帝人を離すつもりなどない。離すつもりがあれば、今帝人の喉もとに食らいつくようにキスを施しはしないだろうし、愛憎を込めた瞳も浮かべない。
臨也が不特定多数に向ける愛情は時に嫉妬を含むが、憎しみとは少し違っている。帝人に対する臨也の視線は妄執であり、そうした感情を臨也に与えた帝人に対する憎しみを含んでいる。
結局、どちらが酷かったのだろう。帝人は思った。
臨也を狂わせる帝人か。そんな帝人を創り上げた臨也がやはり悪いのか。考えても詮無きことかもしれないが、お互いに自分の所為にしたくないと思うくらいには恋に対して臆病なのだ。
帝人は鞄を床に落とし、この日初めて臨也の背に手を回した。ぎゅう、と掌に力を込めて服を掴むと、臨也の愛撫が少し優しくなる。
後頭部を壁に押し付け、ずるずると滑ってゆく。
(溺れる......)帝人は瞳を閉じた。
溺れる。臨也に。臨也の性技に。
......この、歪んだ愛に。
作品名:きっと、二度と這い上がれない。 作家名:tnk