病欲
玄関の前で携帯を落とした事に気付いた。
何時もは制服の右ポケットに入れているはずだった黒の長方形の感触が指から伝わらず、慌てて逆のポケットに手を突っ込むが感触は無かった。態々跪いて鞄の中まで調べたのに、無駄な動きとなった。
特に携帯中毒という訳ではないが、あれは個人情報の塊だ。余り使わないからと言って無ければ無いで心細くなった。
学校まで引き返すか迷ったが、家の前まで来てそれも面倒臭い。それに何時落としたのか全く覚えが無いのに、誰かに拾われたかもしれないそれを探しに行く労力は徒労になるかもしれないと溜め息を吐く。
幸いにも主要な機能にはロックをかけてある。プロフィールも電話帳もメールも開けない。使えない携帯を拾った人物は苛ついて、さっさと興味を無くしてくれるだろう。学校で落としたのなら親切な生徒や教員が拾ってくれているかもしれない。明日、確認すれば良いだろう。
そう軽く考え、家の扉を開いた。高級マンションの一室で、この階はすべてある男が所有している。元々エントランスのセキュリティを潜り抜けなければ此処まで辿り着けない。ゆえに鍵は持っていない。暗証番号さえ覚えれば良いのだ。
主を招き入れるかの如く容易く開いたその場所に視線を落とす。靴は一足も無かった。
「……今日は出掛けてんのか」
同居人の顔を思い浮かべ、やや心が落ち込む。最悪、携帯は買い直さないといけない。安くはない出費に申し訳なく思った。
きっとあの男は笑って買ってくれるだろう。過去何度か、怒りに任せて破壊してしまった時も、「いいよ、いいよ」とすんなり最新のものを買い与えてくれたのだから。
「ただいま、っと……」
室内を見回しても誰も居ない。靴は無くてもひょっとしたら同居人の助手である冷徹な女性が居るかもしれないと思ったのだが、宛が外れた。
別に居ない事は珍しくもないので、居ないなら居ないで構わない。学ランのボタンを外しソファに投げかける。手早くバスタオルと着替えを用意すると浴室に向かう。習慣だった。
俺に両親は居なかった。
唯一の肉親だった弟とも離れ離れになってしまい、今では何処でどうしているのかも、そもそも生きているのかすら判らない。
引き取られた施設では、生来の馬鹿力と気の短さで何度も問題を起こし、何人もの子供たちに怪我をさせてきた。己を包む嫌悪と畏怖、奇異の視線に耐えられず、自身にあった罪悪感も手伝って、半ば追い出される形でそこから逃げ出した。
宛もなく、生きていける知恵もなく、食べていく金もなく、暴力という鎧すら俺を守ってはくれなかった。
それが小学校の低学年の頃。正確な年齢は覚えていない。
その後、何度か補導、という名の保護をしようとした警察から逃げながら、ああ、本当に死ぬんだな、と飢えた痩せっぽっちな身体で真剣に考え始めた。その過程で色々なものを憎み、恨みながら、最期に弟に謝りたかったなあなんて、喧嘩別れしたあどけない少年の顔まで思い浮かべた。
現在の同居人、もとい、保護者に会ったのはその時が初めてだった。
「やあ、初めまして、静雄くん」
薄汚れたゴミ捨て場で、黒のポリ袋を枕にしていた俺に、青空が話しかけてきた。
「聞こえてる?」
遂に俺にもお迎えが来たか、と勘違いするくらい、そいつは空なのに真っ黒だった。
生気のないじとりとした眼球を動かし、視線で『なに』と投げかけた。黒い空は笑った。
「君を拾いに来たんだよ。探したんだ、君の事」
訂正、空じゃなくて、まるで烏みたいな奴だ。そいつの印象は幼い俺の中でどんどん変わっていった。
「君が欲しいんだよ」
俺という死体を啄ばみに来たから、皮肉を込めて烏だと思ったのだが、再び訂正。
こいつは生き物じゃない。
「そろそろ本当に死にそうだね。いやあ、実はすぐにでも助けてあげてもよかったんだけど、幼くて脆弱で非力な子供である君が、世の中を、社会を、人間を憎みながら生きている姿を見るのがとってもとっても楽しくてね!」
なにを言っているのか判らなかった。そう、こいつは悪魔だ。人の言葉を喋っていないんだ。だから聞き間違いだ。こいつはこの数ヶ月間、死の淵を彷徨っていた小学生を映画でも観賞するように監視していただなんて、信じられるか。
それからこの悪魔はべらべらと捲くし立てた。まともな教育を受けていない俺には理解出来ない難しい言葉を沢山喋った。そうでなくても、飢餓で意識が朦朧としているから、普段の三分の一も聞き取れなかったと思う。
何の反応も返さない俺に対し、黒い悪魔はこう言った。
「俺が君を愛してあげるよ。ゴミ屑の一部と化している君を、人間らしく、人間としてね」
訂正。
こいつは悪魔でもない。
「じゃあ行こうか。俺の名前は、イザヤ。折原臨也。よろしく」
性質の悪い、反吐が出る、それでいて甘い偽物の疑似餌で相手の脳味噌を痺れさせる――そんな人間だ。