病欲
きゅっとシャワーの取っ手を閉めながら、遠い過去を思い浮かべる。今ではもう、ぼんやりと霞のかかった夢の出来事だ。
ぽたぽたと落ちる雫を暫く眺め、餓死寸前まで細くなった幼少期とは違い、適度に筋肉のついた滑らかな身体をバスタオルで擦る。乱暴に髪から水を拭っていると、同居人と同じシャンプーの匂いに、眼を細める。
だぼだぼのスウェットを身に纏い、熱で火照る身体を冷まそうと冷蔵庫の牛乳を一気飲みする。まだ帰ってきていない。
同居してから10年近くが経とうとしている、悪魔みたいな男は情報屋なんていう、求人票の何処を探しても見当たらない異色の職業をしている。
直接俺はそれに関しては介入していなかった。その情報に関しても特別興味は沸かなかった。
自分が全力を注ぐ事があれば、同居人を守る事だと思っている。
“情報屋”が単身で動く際、必ず付いていく。高校生ながら、夜の間だけしているボディーガード。己の暴力がこんな形で生かされるなんて、思わなかった。
最初に付いていく、と申し出た時、同居人は随分と渋ったものだ。
こちらは世話になりっぱなしだから、何か報いたい、役に立ちたいと繰り返し、職場体験的な意味合いで同行を許可された。
まさかその当日に20人近くに取り囲まれる事になるとは思わなかった。
全員揃いも揃って情報屋に恨みがあるらしく、問答無用で襲い掛かってきた。あいつは俺の後ろで、判りやすくにやりと笑って、
「ああ、君たち、死んだら救急車は呼んであげるよ」
なんてほざいて。
だけどそんな言葉が聞こえないくらい、その時の俺には怒りが満ちていた。
「……、じゃ、……ねえ……」
ぼそりと呟いた言葉に、チンピラが一人だけ反応した。可哀想に、最初の犠牲者になった訳だが。
顎を殴り飛ばされ一瞬で気絶し、嫌な骨折の音を響かせながら墜落した男を周りは視線で見送り、そして全員の視線が、今まで情報屋のオマケ程度の認識でしかなかった中学生に向けられた。
「臨也に触んじゃねえ!」
傍にあった、標識という標識が、すべて飛んだ。
出逢いは最悪だった。それをすべて塗り替えるくらい、折原臨也という人間は下衆だった。
そしてその下衆にまんまと嵌められ、引っかかり、洗脳された俺はなんなのだろう。
幼い頃からの孤独感と喪失感を埋めてくれ、寂しさで枕を濡らした俺を毎夜抱きかかえ、果てはこの人間離れした力まで認め、許容してくれた。
俺を必要だと言ってくれた。
そんな黒い空、烏、悪魔、人間、情報屋、下衆……臨也に俺は、無自覚に、でも、深くどっぷりと、依存していた。
ひどい時には視界から消えただけで叫んで臨也を呼んだ。臨也が居なくなれば、俺はすべてから否定され、すべてを否定されると思ったから。
行きたくなかった高校には、社会勉強の為と無理矢理放り込まれた。義務教育の間、俺を軟禁していた男が出来る行動ではない。
なんだよ、昔俺が首の無い運び屋と仲良く喋ってた、ってだけでキレた癖に。
とはいえ俺も自分の意思で出なかった節はあるから、そこは攻めない。第一、外に出ると、まるで腫れ物を扱うように避ける人間が多いから気分を害す。臨也はあんなに優しいのに。
それもあって閉じこもっていた俺だから、同世代の人間が集まっている学校には行きたくなかった。丸々一週間、臨也と大喧嘩した末にようやく承諾した。
出した条件は、自宅であるマンションから一番近い高校である事。それでも徒歩30分。
それに該当した偏差値の高くない荒れた高校に入学し、乗り気じゃない俺に対し外の世界は強烈だった。
自覚は無かったが、俺はあらゆる意味で他とは違った。
上背はあるし、男にしては細い印象があるが筋肉はきちんとあるし、外界と隔絶されていたからか、顔立ちは何処か儚げで浮世離れし何処かの幸薄の王子のようだ、と。
染めた金髪も珍しくは無かったが、脱色したにしてはさらさらで綺麗だったゆえに、男子からも女子からも注目されていた。
おまけに臨也や助手の波江以外とろくに会話した事がない為、質問攻めされると舌が縺れ、たどたどしくなる。それを見た周囲は俺の事をシャイで大人しい男子生徒だと認識した。長年の引きこもり生活のお陰か、この世代は俺の化け物染みた力を知らない。
俺を育てた二人は何処か可笑しいので、必然的に二人を教科書にしていた俺も可笑しかった。
世間一般では可笑しい事を、まともな同級生達に囲まれながら少しずつ矯正した。入学一ヶ月目で初めて女子生徒から告白を受けた時に、
「なんで喋った事もない俺の事が好きだなんて言えるんだ? 俺は会話した事ない奴なんかを好きになれる神経なんて持ってない」
と、ある程度親睦を深めたクラスメイトの男子に打ち明けた時には全員にぽかんという顔をされた。
それは明らかに、喋った事もない女子から告白を受けるほどもてる男の余裕や厭味ではなく、純粋過ぎる程の疑問だったからだ。
小学校と中学校は「身体が弱くて通っていなかった」と臨也の台本通りに伝えると、何故か周りはうんうんなるほどと頷いて納得する。俺の世間知らずを真に受けた奴らはそれを割り切り、それなりに仲良くしてくれた。
異常だった俺はそういった生活を送る事で少しずつ普通に近づいていった。
そう、携帯を無くした今の今まで、臨也の持っている狂気を、ほんの僅かな間だけ忘れさせるくらいには、普通だった。