幸福な支配
突き放されると追い縋りたくなる。香はどうしようもない不安に苛まれて、服の胸元を握り締めた。いつもギリギリで繋がっている手が放される、それが恐い。
「……行かない。あたし、ここにいるわ」
心許無くて、語尾が震えた。今にも泣き出しそうな自分に気付き、撩に背を向けた。シンクに手をついて、しばらく衝動を耐えるよう俯く。
そうか、と撩は呟いただけだった。わかりきった結論を確認しただけのように、端から興味などなかったように。
感情の読み取れない声色はいつも通りで、香は肩の力を抜いた。まだ、大丈夫。まだ、傍にいれる。
撩のいない過去は必要なかった。撩のいる未来が大事だった。
* * * * *
夜の街で待ち合わせた二人は、距離を保つように向かい合っていた。女は憤りを孕んだ口調で言う。
「今度、同窓会があるのよ。もちろん、香も行かせるわ。ねえ、冴羽さん。あなた、まさかそこまで干渉しないわよね? いくら危ない仕事に就いているからって、そんなことにまで口出しするなら、それは束縛だわ。差し詰めあのアパートは城砦ね。あなたはさぞや気分が良いでしょう。外の世界から隔離して、香の全てを捨てさせて、それがまるで当然であるかのように甘受させてる。ゴミを捨てるかのように一つずつ摘み上げて、必要かと問い、否定させてから、始末している。香にある、あなた以外の大事なものを奪い取って、香にはあなたしかいないと思わせている。香は素直で、子供みたいに純真な子だから、あなたが全てだと思い込んで、あなたに拒絶されるのを恐れてる。過去に触れ、表の世界の人間と関わるようになったら、あなたに突き放されると考えているの。香をそんな風にしたのは、あなたなのよ、冴羽さん」
親指と人差し指で支えた紙を眺め、耳に痛いほどの声で喋りたてていた女性を思い出し、撩はふっと笑みを浮かべた。
「勘の働く女は厄介だな」
夕飯の準備をしていた香が手を休め、なに、と振り返る。撩は何でもないと手を振り、紙を片手で丸めて、ゴミ箱に放った。