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87600hours

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 二年前に大学を出て、就職を機に実家を離れた。一人暮らし用に借りた安アパートは安月給の僕が暮らすに相応しく貧相で、古いし壁も薄いしあちこち汚れがついている。中に置いてある家具だって実家から持ってきた使い古しや、リサイクルショップで買ってきた安物ばかりだった。
 そんなチープなものに囲まれた狭い部屋にたった一つだけ、奢侈なものがある。
 いや、いる。

「……こうしてまた会えるとは、思わなかったです」

 来客用のお茶ひとつ出せない部屋の、くったりとしてしまった使い古しのクッション。その上に腰を下ろして胡坐をかいている目の前の人物はこの空間には似つかわしくない程の気品を持っていた。

「お久しぶりです……久遠監督」

 僕がそう言うと監督は表情ひとつ変えずに「俺はもう監督ではない」とたったそれだけ返した。
サッカーに関わらない事ではあまり口数の多くない人だと言う事を、僕は十年越しに思い出していた。





 
 十年前。
その口に出せばたった一言で済んでしまう単語は、しかしながら僕にとっては、いいや僕と同年代の元桜咲木サッカー部のOBにとっては、かなり重要な意味を持っていた。
 彼の名前を聞き蘇るのは忌まわしい記憶だけだった。
今から「十年前」、僕や他の部員がした過ちのせいで久遠監督は中学サッカー界を追われた。素晴らしい指導者であったのに、その采配を振るう場所を失った。僕達の未熟さ、そして馬鹿らしさのせいだった。
全国大会、その決勝戦の直前。帝国学園の生徒からちょっと挑発されたくらいで頭に血が上ってしまった部員は相手と揉み合いになり、その結果向こうのレギュラーに怪我を負わせてしまった。決勝で当たる学校同士の、大会期間中の暴力事件。それはなかった事になど出来る訳もない、大きな過ちだった。
あの時、監督は言った。確かに「やめろ」と言った。
常日頃から指示に従わない者は必要ないと、出て行けと、厳しい言葉を僕らに投げかけていた監督。その指示が正しい方向へ導いてくれると分かっていたから僕達は監督の言う事ならば何でも聞いていた。それなのに。
唯一、その指示だけは聞けなかった。「やめろ」と。「耳を貸すな」という監督の指示に誰も従わなかった。誰も監督の言う事を何ひとつ聞かず、帝国学園の部員が放った暴言に皆一様に憤った。
監督の言う事を聞かないものはチームから去る。それが部の掟であった筈なのに、チームから去ったのは監督だった。
僕達は久遠道也という存在を失った。それを、部員全員が心の底から悔いた。監督一人が指導者失格の烙印を押され、僕達は最低の指導者に当たってしまった不幸なサッカー部という全くもって事実とは違う扱いを受け、あらゆる方向から同情と憐憫の視線を注がれた。
久遠監督は処分が決まった直後にすぐどこかに引っ越してしまって、僕達は一言も謝罪出来ないままになっていた。それが余計に心の中で大きなしこりとなっていた。その時、僕は二年だった。
桜咲木中が決勝戦直前に失格という処分を受け、不戦勝で帝国学園が三十年目の栄冠を手にした。その次の日に新しい監督が赴任してきた。けれど僕達はもう以前のようなサッカーができなくなっていた。久遠監督は何も悪くないのだと、自分達の責任なのだと訴えた所でもうあの出来事は全て片付いてしまって、僕達は償いの機会すら与えられなかった。
その事は一年が経っても、いや一年が経って再び同じ季節が巡ってきたからこそまるでトラウマのように僕達の記憶の奥底から蘇り、心臓の辺りをぎゅうと締め付けた。
きっと、久遠監督は僕達に優勝して欲しかったんだろう。そんな事、誰に言われずともわかっていた。僕達、そして桜咲木中サッカー部の未来を考えるからこそ監督は自ら泥を被ったのだ。僕達から、これから先入部してくる未来の部員からサッカーを奪わないために。
しかしその気持ちを知っていても、やすやすと自分達が監督から未来を奪った事実に真正面から向き合う事は出来なかった。久遠監督が残してくれたサッカーは、僕達が監督から奪ったサッカーと同じものだったから。
監督がいなくなって一年後の大会は前評判をあっさりと裏切って地区予選の序盤で敗退し、三年生だった僕達はそこで引退した。そして僕を含めた半分は、そこでもうサッカーを辞めた。辞めた者も続けた者も、おそらく理由は同じだった。
監督に対する、償いだった。
僕は中学を卒業してから、別の学校へ進学した部員には連絡も取らなかった。同じ高校でもクラスが離れれば殆ど話もしなくなった。会えば、話せば、どうしても部活の話題になってしまうし、思い出せば嫌な記憶も一緒に頭の奥から引っ張り出してしまう。それをお互い懸念して、正月に一斉送信の挨拶メールを送るくらいの付き合いしかなくなった。
高校に入って、大学に進学してもサッカーに対する興味は薄れたままだった。ボールを蹴りたいなんていう気持ちはどこからも湧いてこなかった。あれだけ毎日飽きもせずにグラウンドを走り回っていた少年時代が嘘のように、僕はサッカーから離れて、逃げて生活をしていたのだった。
しかしながら僕の事など知らない世間はスポーツニュースで毎日サッカーの話題を取り上げる。大学でも昔サッカー部だったと話す友人が何人かいたけれど、それに対して「僕もそうだ」とは到底言えなかった。
何年も経ち、僕の精神は成熟したけれど、昔に負った傷の周囲だけはまだ幼いまま残っていた。だからこそ、こういう手段に出てしまったのだと自分を分析する。

「テレビを観ていたら監督の姿を見つけて、びっくりしました。久しぶりにあの時の部員達に連絡を取り合って、皆も驚いてましたけど、それでも全員、よかったって言ってました」

 落ち着いてそう言葉に出来たのは、自分が十年前よりも成長したからなのだろう。まだ幼い頃の自分であったとしたならば、久遠監督と顔を合わせた瞬間に言葉にならない言葉を喚きながら抱きついてしまったに違いない。
 そうしたい気持ちは、成熟と共になくなった訳ではない。ただ抑え込む術を身に付けただけだ。

「皆、監督に会いたいって言ってました。会って謝りたいって。……たまたま俺が合宿所の近くに住んでたからこうして顔を合わせてますけど、それは皆が簡単には来られない所にいるっていうだけで、あの時の部員は全員監督に……」
「何度も言わせるな。俺はもうお前達の監督じゃない」

 久遠監督、いいや彼の言葉に従うならば久遠さんの、静かな声は僕の歓喜を滲ませた上ずり声をまるで無視して言いたい事だけを言う。こういう所も、全く変わっていない。
 そして僕もどれだけ成長していようと、やはりこの人の前では僕でしかない。彼の、久遠さんの言う事に唯々諾々と従うしかないのだ。

「これは、返しておこう」

 久遠さんがそう言って差し出しだのは小さな紙片だった。ある程度厚みのある真っ白い長方形の紙。それは僕にとって見覚えのありすぎるもの。僕が日本代表の合宿所を訪れた際に、その場にいた少女に渡した名刺だった。
作品名:87600hours 作家名:タカツキ