87600hours
FFI抽選会でくじを引く久遠さんの姿を見つけた僕は、十年近くの疎遠がまるで嘘のように、かつてのチームメイト達と自発的に連絡を取り合った。久遠さんがきっかけで散り散りになったサッカー部は、再度集まるのもやはり久遠さんがきっかけになったのだ。皆一様に久遠さんとの一方的な再会に驚き、そして彼が自分達とは違いサッカーを忌むべきものにしていなかったという事実に安堵を覚えていた。
FFIアジア予選は日本で行われるけれど、本戦に駒を進めれば当然海の向こうに選手を連れていってしまう。もしも会えるとするならばその前だと皆口を揃えて言った。ちょうどスポーツ雑誌のライターとして働き始めた友人が、仕事の伝手でもって合宿所の場所を知ったのは僥倖だった。そして一番近くに住んでいた僕が休日を利用して、久遠さんを訪ねた。それがちょうど三日前の事だった。
合宿所と言うからてっきり中学時代に夏休みで寝泊まりしたような建物を想像していたのだけれどもそんな事はなく、本当にここをたった十六人の少年達とそのサポートメンバーだけで使っているのかというくらい、立派な建物だった。隣接のグラウンドも当然ながらかなり広く、敷地の入口の前で僕は少しだけ気圧されてしまった。
そうだ、こんな立派な施設を与えられるくらい日本代表、イナズマジャパンは期待されているチームなのだ。
そしてその総指揮を執る事を許される程、あの人は優秀であったのだと、僕は全く今更だけれども十年前の記憶を掘り起こして実感する。すると途端に不安な心に襲われてしまって、次の一歩が踏み出せずにその場に立ちすくんでしまった。
会いに来ました、と言っていいのだろうか。どんな顔をして、どんな声のトーンで、どんな口調で話をすればいいのだろうか。そもそも、僕はあの人に会っても良いのだろうか。
僕達の存在は相手にとっては過去の過ちあるいは苦しみであって、僕が会いに来た事で庇っている心の傷を抉ってしまいはしないだろうか。そんな事にようやく僕は気付いた。胸にあった緊張は緊張のままで別の色を持つものに変貌していき、僕の心に嫌な感情をドロドロと流し込んでいく。
やはり帰ってしまおうか、と思った僕の背中にしかしながら可愛らしい声がかけられた。
「あの、何か御用ですか?」
振り返れば、オレンジ色のジャージを着た少女が立っていた。不安げな様子で僕を見る。彼女の表情に、自分が今不審者だと思われてしまっているのではないか、と僕は焦った。慌ててポケットから財布を取り出した。
「ええと、イナズマジャパンの合宿所はここでいいんだよね?僕はこういう者なんだけど」
財布から一枚、名刺を出して少女に渡した。素直にそれを受け取った彼女はそこに書かれた字を眺め、またも不審がる表情。今度は聞かれる前に答えたけれど。
「あ、勘違いしないでね。仕事の関係で来たんじゃないんだ。久遠監督はここにいるかな?僕は昔、監督にお世話になった事があってね、ちょっと挨拶に来ただけなんだ」
僕の名刺には文具メーカーの社名と、販売担当という肩書きがついている。セールスの類だと思われないように、私用で来たのだと明言してやれば、そして久遠監督の名前を出してやれば少女は合点がいったように何度か頷いた。
「すいません、久遠監督は今出かけてるんです。もしよかったら待ってますか?」
「いいや、いないなら別に、構わないよ。特別約束をしていた訳でもないし」
そう言って彼女に背を向けて僕は合宿所を後にした。間が悪かった、と思った。また来ればいいだけだ、と彼女に言うもののおそらくもう一度足を運ぶ勇気は出ないだろう。自分の性格は自分が一番よく知っていた。仲間には会えなかった旨を伝えて、きっと本戦でもあの頃と変わらない素晴らしい采配を振るうだろうあの人を、液晶のこちら側から応援するだけでいい。そう思っていた、
だから数日経って、会社の電話に久遠さんからの連絡が入った時は本当に驚いてしまったのだった。
合宿所で僕が名乗った際に差し出した名刺には当たり前だが、会社の電話番号、それも直通のものが記載されている。あのマネージャーの子が僕の来訪を久遠さんに伝えた際に名刺を渡したのだろう。彼女がそうするだろう事は僕にも予見できていたけれど、まさか久遠さんがわざわざ僕に連絡を寄越すまでは予想していなかった。予想なんて出来るものか。あんな事があって十年、一度も会っていなかったのだ。
久方ぶりに聞いた久遠さんの声は電話を通してであったせいだろうか、それとも月日が経って記憶が曖昧になっていたからだろうか、こんな声をしていただろうかと思ってしまった。まるで知らない人のようだったから、相手が「久遠だ」と名乗らなければきっと誰かわからなかっただろう。自分はあれ程慕っていたのに。
動揺と、業務時間内であるという事。その二つのせいで僕はあまり長々と話は出来ない。後者の理由を伝えると久遠さんは、更に驚いた事に会って話がしたい、と言ってきた。そんな事を何の為に、とわざわざ僕に会おうとする真意を聞きたかったけれど、私用で長電話をする僕を上司がじろりと見てきたので、名刺にあるメールアドレスに連絡を下さい、とだけ言って通話を切り上げた。
それから幾度かメールのやりとり(久遠さんのメールアドレスを知ってからは公用でなく私用の自宅パソコンのアドレスを使っていた)を経て、こうして対面へと会いなった訳だった。
どこかの喫茶店に待ち合わせでも、という僕の提案を久遠さんは十年前と変わらぬ強引さで却下すると「お前の自宅は近いのか」と聞いてきた。何度も言うようだけれど、久遠さんの言葉には逆らえなかったし、久遠さんに嘘をつく事は出来ず、僕はせめて久遠さんが嫌な思いはしないように、と前日に大掃除をした。そして、今日こうしての再会に至る。
「それは、監督が持っていて下さい」
久遠さんが寄越した名刺を僕は受け取らなかった。久遠さん、と呼びたかったのに口は勝手に監督という言葉を紡いでしまった。懐に僕の名刺を仕舞いながら久遠さんは律義に反応を返す。
「何度言わせる。もうお前達の監督ではない」
久遠さんの瞳がこちらを見据えた。
「お前はもう、サッカーをしていないんだろう?」
「……はい」
「俺が今日来たのは、それを直接確認したかっただけだ。サッカーをやめたのなら、もう俺の事も十年前の事も忘れろ。お前にとって枷にしかならない」
「そんな!」
「お前、いやお前達も過ぎた事を蒸し返してわざわざ嫌な気分になっても意味がないだろう。他の部員にもそう伝えておけ」
久遠さんは、自分に会いたがっていたのが僕だけではないと知っていたようだった。まるで僕達の行動などお見通しと言わんばかりの久遠さんに僕は、それでも食い下がる。
作品名:87600hours 作家名:タカツキ