in a moonlit night
今夜の月は、人生で出会う一番綺麗な月かもしれない、と。
シズちゃんの右腕一本に命を預けて空中にぶらさがりながら、俺は思った。
池袋で用事を済ませた帰りにシズちゃんに見つかって、いつものように鬼ごっこが始まった。
逃げ込んだ廃ビルの屋上、その手すりの上に立ってネオンが光る街を眺めていると、案の定シズちゃんもすぐに屋上へやってきた。殴りかかってくる彼をギリギリまで引きつけてから隣のビルの非常階段へ飛び移ってやろうという心積もりだったのだが―――
飛ぼうとした瞬間、うっかり足を滑らせた。しまった、と思った時には既に全身が宙に浮いていた。
そして俺は遥か彼方の地上まで真っ逆さまに落ちて行く、はずだったのだ。
―――思わず伸ばした俺の右腕を、この男の右腕が掴まなければ。
乱暴に手すりの内側へと引き上げられ、吹きさらしの冷たいアスファルトの上へと転がる。舌打ちをする音に続き、遠ざかっていく足音が聞こえた。掴まれた手首の辺りが痛い。しばらく痣が消えないだろう。俺はゆっくりと上半身を起こしながら夜空に輝く満月を見上げ、やはり今夜の月は綺麗だ、と思った。
―――ここまであからさまに暗黙のルールが破られるのは初めてだ。
シズちゃんは少し離れたところで俺に背を向けて煙草を吸っていた。大方、俺を助けたことに対する上手い言い訳でも考えてるんだろう。
……いや、ひょっとしたら自分でも助けた理由がさっぱり分からなくて混乱しているのかもしれない。
そうに決まっている。だって馬鹿なシズちゃんは、本気で俺のことを殺すつもりで喧嘩をしてきたに違いないのだから。今の今まで、ずっと。
―――こっちはもう、気付かないふりなんてとっくに限界なのに。
俺たちのこの殺し合いは何だ。
この馬鹿力の化け物は、何故俺一人ぐらいさっさと殴り殺してしまわない? 策略を巡らせることを何よりも得意とする俺は、何故すぐにでもこの男を徹底的に潰してしまわない? 何故、本気の殺し合いが悠長に8年間も続く?
―――結局のところ、俺たちは互いに依存し合っているだけだ。
誰からも愛されることがない、誰かを、誰か一人を愛することができない独りぼっちの俺たちが築き上げた、殺し合うことで、相手に対する執着を示すことで完成する不器用で幼稚な依存関係。相手を失うことなどできない。そんなことをすれば、今度こそ独りぼっちになってしまう。
―――そうでしょう、シズちゃん? 俺の勘違いなんかじゃないでしょう?
「ねぇ、シズちゃんはさぁ……誰かを愛したことってある?」
「……はぁ?」
「家族愛とか友愛は抜きで。誰か一人を独占したくて執着して醜い感情でドロドロになって、それでも誰かを求めたことはある?」
座り込んだまま、再び夜空を見上げて尋ねた。現状についての説明を求められなかったことを幸いに思ったのか、シズちゃんは珍しく素直に質問に答えた。
「……無ぇよ」
「……だろうね。ひょっとして、シズちゃんって初恋もまだとか?」
さすがに機嫌を損ねるかと思ったが、彼は催眠術にでも掛かったかのように訥々と返事を返してきた。月の魔力とやらのせいかもしれない。
「……いや。ガキの頃に好きだなって思った奴はいたけど……すぐにこの力のせいで大怪我させちまった。当たり前だけどそれからは避けられるようになって……もう、相手の顔も覚えてねぇよ」
「……そうなんだ」
沈黙が落ちると、地上の何処か遠くを走る車の音が聞こえてきた。
愛されない、愛せない、愛するのが怖い。やはり俺たちは似ている―――心のどこかでは愛されたがっていることも。
そう、今夜だけじゃない。俺はいつだってシズちゃんに向かって手を伸ばしてきた。
いつからかなんて分からない。気付けば離れられなくなっていた。独占したくて執着して、醜い感情でドロドロになった。この化け物なら自分を受け入れてくれるはずだと愚かに信じていた。
ただ、彼から拒絶されることに怯える臆病な俺は、いつだってその手にナイフを握りしめずにはいられなかった。
―――ずっと、シズちゃんに手を掴んで欲しかっただけなのに。早く気付いてよ、馬鹿なシズちゃん。
「あ、でも……」
唐突にシズちゃんが声を上げた。視線を向けると、バーテン服の男は手すりに片手をついて二本目の煙草を吸っていた。
「そういうのとは全然違ぇけど、執着ってのはしたことがあるな。いや、今もか」
まるでクイズの答えが閃いたときのように、ただ純粋に思い付いたという様子でシズちゃんは告げる。
「手前だよ。俺は手前が気に食わなくて大っ嫌いで殺してやりたくて、ずっと執着してる」
思わず大声で笑い出しそうになった。
ああ、その鈍すぎる思考回路が羨ましい。
そんなこと言って、今まで俺を殺せなかったことはどう説明するつもり? 落ちていく俺の手を掴んだことは? 目の前でへたり込んでいる俺を今すぐ殺さないのは、一体どうして? たった一人にそこまで執着し続けることに、疑問は覚えないの?
俺は立ち上がり、数メートル先に立つシズちゃんの姿を見つめる。月の光を浴びた金髪がひどく綺麗だと思った。
「……馬鹿なシズちゃんに教えてあげる」
やっぱり勘違いかもしれない。求めているのは、俺の方だけかもしれない。
でも、そんな憶測なんてもうどうでもいい。
―――シズちゃんは今夜、俺の手を掴んだのだ。
「俺たちは多分、愛し合ってる」
シズちゃんの右腕一本に命を預けて空中にぶらさがりながら、俺は思った。
池袋で用事を済ませた帰りにシズちゃんに見つかって、いつものように鬼ごっこが始まった。
逃げ込んだ廃ビルの屋上、その手すりの上に立ってネオンが光る街を眺めていると、案の定シズちゃんもすぐに屋上へやってきた。殴りかかってくる彼をギリギリまで引きつけてから隣のビルの非常階段へ飛び移ってやろうという心積もりだったのだが―――
飛ぼうとした瞬間、うっかり足を滑らせた。しまった、と思った時には既に全身が宙に浮いていた。
そして俺は遥か彼方の地上まで真っ逆さまに落ちて行く、はずだったのだ。
―――思わず伸ばした俺の右腕を、この男の右腕が掴まなければ。
乱暴に手すりの内側へと引き上げられ、吹きさらしの冷たいアスファルトの上へと転がる。舌打ちをする音に続き、遠ざかっていく足音が聞こえた。掴まれた手首の辺りが痛い。しばらく痣が消えないだろう。俺はゆっくりと上半身を起こしながら夜空に輝く満月を見上げ、やはり今夜の月は綺麗だ、と思った。
―――ここまであからさまに暗黙のルールが破られるのは初めてだ。
シズちゃんは少し離れたところで俺に背を向けて煙草を吸っていた。大方、俺を助けたことに対する上手い言い訳でも考えてるんだろう。
……いや、ひょっとしたら自分でも助けた理由がさっぱり分からなくて混乱しているのかもしれない。
そうに決まっている。だって馬鹿なシズちゃんは、本気で俺のことを殺すつもりで喧嘩をしてきたに違いないのだから。今の今まで、ずっと。
―――こっちはもう、気付かないふりなんてとっくに限界なのに。
俺たちのこの殺し合いは何だ。
この馬鹿力の化け物は、何故俺一人ぐらいさっさと殴り殺してしまわない? 策略を巡らせることを何よりも得意とする俺は、何故すぐにでもこの男を徹底的に潰してしまわない? 何故、本気の殺し合いが悠長に8年間も続く?
―――結局のところ、俺たちは互いに依存し合っているだけだ。
誰からも愛されることがない、誰かを、誰か一人を愛することができない独りぼっちの俺たちが築き上げた、殺し合うことで、相手に対する執着を示すことで完成する不器用で幼稚な依存関係。相手を失うことなどできない。そんなことをすれば、今度こそ独りぼっちになってしまう。
―――そうでしょう、シズちゃん? 俺の勘違いなんかじゃないでしょう?
「ねぇ、シズちゃんはさぁ……誰かを愛したことってある?」
「……はぁ?」
「家族愛とか友愛は抜きで。誰か一人を独占したくて執着して醜い感情でドロドロになって、それでも誰かを求めたことはある?」
座り込んだまま、再び夜空を見上げて尋ねた。現状についての説明を求められなかったことを幸いに思ったのか、シズちゃんは珍しく素直に質問に答えた。
「……無ぇよ」
「……だろうね。ひょっとして、シズちゃんって初恋もまだとか?」
さすがに機嫌を損ねるかと思ったが、彼は催眠術にでも掛かったかのように訥々と返事を返してきた。月の魔力とやらのせいかもしれない。
「……いや。ガキの頃に好きだなって思った奴はいたけど……すぐにこの力のせいで大怪我させちまった。当たり前だけどそれからは避けられるようになって……もう、相手の顔も覚えてねぇよ」
「……そうなんだ」
沈黙が落ちると、地上の何処か遠くを走る車の音が聞こえてきた。
愛されない、愛せない、愛するのが怖い。やはり俺たちは似ている―――心のどこかでは愛されたがっていることも。
そう、今夜だけじゃない。俺はいつだってシズちゃんに向かって手を伸ばしてきた。
いつからかなんて分からない。気付けば離れられなくなっていた。独占したくて執着して、醜い感情でドロドロになった。この化け物なら自分を受け入れてくれるはずだと愚かに信じていた。
ただ、彼から拒絶されることに怯える臆病な俺は、いつだってその手にナイフを握りしめずにはいられなかった。
―――ずっと、シズちゃんに手を掴んで欲しかっただけなのに。早く気付いてよ、馬鹿なシズちゃん。
「あ、でも……」
唐突にシズちゃんが声を上げた。視線を向けると、バーテン服の男は手すりに片手をついて二本目の煙草を吸っていた。
「そういうのとは全然違ぇけど、執着ってのはしたことがあるな。いや、今もか」
まるでクイズの答えが閃いたときのように、ただ純粋に思い付いたという様子でシズちゃんは告げる。
「手前だよ。俺は手前が気に食わなくて大っ嫌いで殺してやりたくて、ずっと執着してる」
思わず大声で笑い出しそうになった。
ああ、その鈍すぎる思考回路が羨ましい。
そんなこと言って、今まで俺を殺せなかったことはどう説明するつもり? 落ちていく俺の手を掴んだことは? 目の前でへたり込んでいる俺を今すぐ殺さないのは、一体どうして? たった一人にそこまで執着し続けることに、疑問は覚えないの?
俺は立ち上がり、数メートル先に立つシズちゃんの姿を見つめる。月の光を浴びた金髪がひどく綺麗だと思った。
「……馬鹿なシズちゃんに教えてあげる」
やっぱり勘違いかもしれない。求めているのは、俺の方だけかもしれない。
でも、そんな憶測なんてもうどうでもいい。
―――シズちゃんは今夜、俺の手を掴んだのだ。
「俺たちは多分、愛し合ってる」
作品名:in a moonlit night 作家名:あずき