それが「恋」だと、
「そうですか、そうですか。それならば私にはもう、この世に気がかりなことなど何もないなあ」
ほんとうにありがとうございます、あんな孫でも可愛いのでね、実は少し不憫に思っていたのです、一生を一人きりで終えることしかできないようなあの子のことを。でも、あなたが側にいてくださるのなら。
もう安心ですね、もう大丈夫ですね、本当によかった。
老人の姿が薄れる。
帝人が伸ばした手のひらも。
町並みも。
風の吹き付ける感覚も。
何もかもが薄れて、光の中に滲んでいく、その光景をぼんやりと見ながら、帝人は理解した。ああそうか、これで最初に繋がるのかと。よかった、それなら僕は臨也さんを、思い切り抱きしめてあげられるのだな、と。
ねえ臨也さん。
もう首はいいでしょう。小さな子供に譲ってあげてください。
代わりに僕が居ますから。
ずっとずっと側に、居ますから。
帝人が目を開けたとき、臨也はカーテンから差し込む光の中に呆然と座りこんで、空っぽのガラス容器を見詰めていた。
帝人はその横顔をつたって、透明な涙がぽろぽろと零れ落ちるのをぼんやりと眺めて、それからゆっくりと起き上がってその顔を抱きしめてあげた。約束したし、この両手は今、そのためにある。
帝人に擦り寄るように動いた臨也が、くぐもった声で、首が消えてしまったよ帝人君、と不思議そうに言うのを聞いていた。
「悲しいですか」
問えば一瞬の沈黙の後、答えは返る。
「・・・ちょっと悲しいけど」
「けど?」
「帝人君が居るから、もういい」
からん、と空っぽのガラス容器が音を立てて床に転がる。それを目で追うと、カレンダーが視界に入ってきた。早いもので、もう夏休みの半分が終わってしまっていた。この部屋で過ごした時間は、短いようで結構長かったようだ。
改めて体を離し、帝人はまじまじと臨也の姿を見詰めてみた。肩のラインに自分の歯形を見つけて思わず頬を染める。昨日はあれから、理性がどろどろに溶けてしまったせいで・・・いや、溶かされたのほうが正しいのか。ともかくそんなこんなんで自分が彼にどんな態度をとったのか全くおぼえていない。
あんなふうに好きだと言われるなんて、考えても見なかった。言って欲しいと頼んだのは自分だというのに、あの声はずるい。あんな、震える声を出すのは。縋るように告げるのは、ずるい。
目を逸らして俯けば、自分の体にもそこかしこに鬱血の痕が見られた。臨也は所有印を残すことが好きなのだろうか、それとも、自分のものだと印を付けておかなければ不安なのだろうか。この人は子供のような人だから、不安のほうが正解なのかもしれないなと、帝人は思う。
「帝人君」
うつむいた帝人に手を伸ばして、臨也が小さく呼んだ。その手が震えていることが分かる。あれほど好きだと言って、抱き合って、まだ足りないのか。まだ、不安なのだろうか。
「・・・臨也さん、水族館」
「うん?」
「水族館、いきませんか」
伸ばされた手をとって、帝人は緩やかに笑う。もうこんなところに閉じ込められなくてもいいはずだ。逃げ場をなくして囚えなくても、ちゃんと、臨也に手を伸ばしてあげられる。
そして臨也はそれを、自覚してくれていい。
「夏だし、どこか出かけましょうよ。僕、水族館に行きたいんです」
「・・・2人で?」
「不満ですか?」
「行く」
ぎゅっと抱き寄せられて、首筋に臨也が顔をうずめた。
ああ、また泣くのかな。泣き虫なその子の小さな頭を撫でて、帝人は、前にもこんなことがあったなあと小さく笑った。
「・・・何」
涙をこらえているような声が問うので。
「いえ、夢で見たなあと思って、こういう臨也さんを」
最もそれは小さな子供だったけれど。
「あなたはぐちゃぐちゃに泣いてて。僕は、笑ったらいいなって思ったんです」
だから抱きしめた。
だからその頭を撫でた。
だから、手をつないだ。
とても簡単なその気持を、きっと簡単に恋と呼ぶのだろう。今こうして同じように泣きそうになる彼に抱く、滲むような暖かな気持ちも。
恋と。
そう呼ぶのだろう。
「俺が笑ったら、帝人君は嬉しいの?」
「・・・はい」
帝人は頷く。ゆっくりと、しっかりと。
「笑って、ください」
臨也が泣きそうな顔でぎこちなく笑う。それでもその顔は、帝人が今まで見た中で最高の笑顔だった。
これは首に恋をした男の話。
そして首に託した恋の話。