それが「恋」だと、
第九話 / そして君の恋になる
いつもの夢だ。帝人は子供に手を引かれて歩いていた。
子供は、遠くに見える光のほうへと、ぐいぐい帝人を引っ張って歩く。繋いだ手は温かくて、子供の小さな手のひらはどこにこんな力があるのか、と思うほどほっそりとしていた。
暗闇の夢の中で、帝人の足は不意に何かを蹴っ飛ばし、そして一瞬止まる。あ、と慌てて帝人は蹴飛ばした方向に手を伸ばした。子供の手が少しの間はなれたその隙に、なんとか足元に落ちていた何かを拾い上げる。
なんだろう、これ。丸っこい形・・・あ、毛が生えている。あれ、でこぼこもしているだろうか。まるで首みたいだ。
そこまで考えて、ふと思い当たった。
ああ、臨也さんが切り取ったって言う、僕の首かな。
ここは夢の中だから、それが落ちていたとしても不思議ではない。ボロボロ泣きながら君を殺す夢を見たと話した臨也を思い出して、帝人は口元を緩めた。
君を傷つけるくらいなら手なんかいらないと、彼は言った。だから側に居てと。馬鹿な人、最初からそう言って、監禁なんてまわりくどい手を使わずに、なりふり構わず頼んでくれたなら・・・最初の最初から、好きだと言って、抱きしめてくれたなら、もっと早く抱き合って眠ることができたはずなのに。
臆病で、泣き虫で。
わがままで。
本当に、仕方のない人。
帝人は首を抱えてもう一度歩き出そうとした。そこに、子供がどこにいるのと問いかける声が響く。ここにいるよと答えてから、子供を捜して手を伸ばした。辺りは酷く暗いけれど、もうその闇が怖いとは思わない。
やがて手のひらが子供にふれて、子供は、まいごになったらだめでしょう、なんて偉そうに言いながら、それでも不安だったのか、帝人の手のひらをぎゅうぎゅうと握り締めた。少し、痛い。
けれども故意にはぐれたのは事実なので、素直に謝罪の言葉を口にした。それでようやく機嫌を直したのか、子供は手をつなぎ直す。
きみはおれのそばにいないとだめなんだよ。
怒ったように言う声が、それでも、不安に揺れているのを感じる。居なくなったら嫌だと叫ぶ、子供の本心が透けて見えた。ああ、そうか、そうだね。
ちゃんと側にいますよ。・・・いざや、さん。
晴れ晴れとした気分でその名前を口にした途端、突然、暗闇の中に光が落ちてきて、世界を一瞬で塗り替えていく。
わ、と子供が小さな声をあげる。その方向に顔を向けて、大きな目を見開いた子供の顔を、よくよく見詰めてみた。
本当に、ずいぶんと綺麗な子だ。人形のように整ったその顔立ちは、惚れた贔屓目を抜きにしても天使のように愛らしい。急激な光に驚いたその大きなまなざしが、帝人を見ようと瞬きを繰り返す。その様子が可愛くて、帝人はゆっくりと微笑んだ。
子供が、いや、臨也が何か言いかける。
けれども強烈な光の渦に巻き込まれるように、その姿はいつの間にか薄れて消えた。
一人残された帝人は、周囲をぐるりと見渡す。そこは廃れた港町のようなところで、辺りには誰もいない。緩やかな風が吹くだけで、あの子供の姿はどこにもなかった。
勿体無いことをしたな、と帝人は思う。
あんなに可愛いんだから、笑ってくれたらもっと良かった。ずいぶん泣き虫みたいだったけれど、あんな泣きはらした目でも、笑ってくれたらきっととても可愛かっただろう。そういえば、何か言いかけていたけれど何を言いたかったのかな。そんなことを思って歩いていると、ふと、道の先に一人の老人の姿が見えた。
帝人は、引き寄せられるようにそちらに近づく。
老人は小粋なステッキを片手に、人待ち顔で佇んでいた。
「こんにちは」
声をかけてから、帝人はようやく自分の声を思い出した。暗闇の中では、言葉を発しても何もかも現実感がなくて、声さえぼやけてしまっていたのだ。
「今日は、おや、珍しい。ここで人に会うのは初めてです」
振り向いた老人の顔立ちは、それでもずいぶん精悍で、目の辺りがあの子供と似ている気がした。
「それに、珍しいものをお持ちですね」
指摘されて、帝人はそういえば、と自分が持っているものを思い出す。右手に握り締めていたものは、自分にそっくりな顔をした首だ。臨也が切り取ったという首。そんなことをしてでも側にいて欲しいと思われていたことが、怖いけれど少し嬉しかったなんて、恥ずかしくて言えないけれど。
しみじみと見つめたその首はやはり自分の顔で、最初に見た時ほどの恐怖はなくとも、やっぱりどこか違和感を覚える。
「・・・ある人が、僕を殺して切り取ったのだそうです」
正直に答えれば、老人は目を細めて首を見詰めた。
「顔は、二つはいらないでしょう。良ければ私にくださいませんか」
「ええ?でも、僕の首ですよ」
「そう、あなたの首だから。実に私の好みです」
老人は笑う。冗談のようなその言葉に、帝人もつられて笑った。
考えてみれば、確かに首は二つもいらない。あげてもいいのかもしれない。ああでも、それはどこかで聞いた話だなあと帝人は思った。そう、例えばあの泣き虫な青年から。
そして次の瞬間には、唇が勝手に言葉を紡ぐ。
「・・・構いませんが、代わりに欲しいものがあるんです」
「おや、なんでしょう。私に差し上げられるものですか」
「ええ、あなたに孫が居るでしょう。僕はその子が欲しいんです」
「臨也のことでしょうか」
いざや。
ああそうだ、と帝人は大きく頷いた。多分最初の最初から惹かれていたその人の、帝人を見るときだけ熱がこもる、あの一途な視線が好きだ。
「・・・僕は、その子の唯一無二になりたいのです。わがままでしょうか」
「いえ、いえ、とんでもない。けれどもいいのですか、多分、苦労するのはあなたのほうですよ。あれは実に可愛い子ですが、相当歪んでいます。ひねくれているなんていう問題ではない。歪んでいるんです、ぐにゃぐにゃに」
だからあれに好かれると言うことは、それ自体が大変なことです。何しろ何をするか分からない孫なので、と老人が言う。けれども楽しそうに目が笑っていた。
「歪んでいるのは知ってます。でも、彼はとても泣き虫なんです」
帝人もつられるように微笑んで、答える。
「とてもとても泣き虫なんです。僕が側に居てあげなきゃ」
そうでなければあの子は意地を張って、誰にも涙を見せないまま生きていかなければならない。さっきのように、誰も居ない暗闇の中に紛れて、誰にも知られぬように一人で泣くしかない。そんなのは悲しすぎる。
「・・・そうですか、あなたが孫の拠り所になってくださるんですね」
老人は目を細めて、優しい声でそう言った。
「それはいい、素晴らしいです。あの子はああいう子ですから、誰一人側にいてはくれない。また、誰かが側にいることを許せない」
しみじみと、孫を思う祖父の声は、愛しげに響く。
「でもこの首を見たらきっと、あれはあなたに惹かれるでしょう。何しろとても私の好みなんです、私の好みとあれの好みはほとんど同じですから」
「首だけでも、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ、それがあなたなら」
帝人は老人に首を手渡す。老人は丁寧にそれを受け取りながら、満足そうに微笑んだ。
「いつかはその両手で臨也を抱きしめてやってくれますか」
「すぐには無理ですが、はい、勿論僕でよければ」