靴紐
靴紐
その日は珍しくカフェで待ち合わせをしていた。
テラスに設けられたテーブルに座っていると、あたたかい陽の光が降ってきてとても気持ちがいい。汗をかいたアイスコーヒーのグラスをナプキンで拭って、ストローでかきまぜると溶けだした氷とコーヒーが混じりあう。少し薄くなったコーヒーの味も気にならないほど俺は浮かれていた。
普段と違うからだろうか。家ではなく外で会うのも久しぶりだったし、いつもは俺より早く来る彼を待つのはなんだか非日常的で俺をひどく楽しい気分にさせた。
今日は締め切り日だったので、アーサーは原稿を渡してから俺と合流する手はずだった。
俺の兄は、子供向けの絵本を手掛ける絵本作家だ。可愛い妖精やユニコーン、悪戯好きの精霊たちに、耳のとがったエルフや地中で生活するドワーフ。彼の紡ぎだす物語は、あたたかな色彩とあいまってとても幻想的だった。
英国人は妖精や幽霊の存在を信じる者が多いが、彼のまるで見てきたかのような筆致に、世間は彼を妖精が見える男と呼んだ。俺自身はSFやUFO、宇宙人、それから考古学に古代ロマンや遺跡などが好きだが、ファンタジーな妖精や何やらは信じていない。もちろんモンスターは怖いけれど(怖い映画を観た夜は決まって彼のベッドにもぐりこんだものだ)それでも頭ではフィクションとノンフィクションの区別はついている。ただ生理的に怖いだけでそこに存在しないと頭でちゃんと理解している。
だが、彼は本当に妖精の存在を信じている。俺の目には見えないから存在するとも存在しないとも明言できないが、ただ彼の描く絵本は好きだった。
何しろ彼の絵本は、そもそも俺のために描かれたものだからだ。俺の母親と彼の父親が再婚同士結婚して、数年で離婚して、俺たち血の繋がらない連れ子兄弟はそれぞれ英国と米国に別れて暮らすようになった。大人の都合など知らない幼い俺はアーサーに会いたいと泣いた。幼いながらに大変な頑固者だった俺は、母親からアーサーと連絡をとってもいいという許可が下りるまで泣き続けて、大地をも揺るがすような泣き声(これはのちに聞いた母の談)にさすがに辟易した彼女は俺に便箋と封筒を与えたのだった。
今まで一緒に暮らしてきた兄と引き離されたのだ。恋しくなって当然だ。俺は覚えたばかりの文字で切々と彼に想いを訴えた。
そして会うことができない代わりにといってアーサーが寄こしたのが絵手紙だった。彼の手紙には俺たちが昔飼っていたうさぎやインコの絵が描かれていて、その隣になんだかわからない動物が並んでいた。前々から彼は妖精の存在を主張していたし、こんなに可愛くていい奴らなのに見ることができないなんて、と俺をいっそ憐れんですらいた。だから、可愛い弟に自分の見るものを分け与えてやろうと思ったに違いない。
それらは俺にとっては馴染みのないものであったが、彼の描きだすそれらはやさしくて、彼の目に映る世界はなんて色彩鮮やかでやさしいのだろうと思ったものだった。俺は妖精を見ることはできないけれど、彼の目を通して見ることができる。その幸福に感謝すらしたのだった。
俺に絵手紙を送る一方、彼は大人、とりわけ実父への反感と不信から反抗期に突入したらしい。もっとも、彼のヤンキー時代はそう長くなかった。俺の実母の病死によって俺は再び義父のもとで養われることになり、彼とは数年で再会することができたからだ。
アーサーは大学在学中に友人の勧めで絵本を描き始め、彼の幻想的な作品は既に何冊も出版されて子供たちに愛されるところとなっているのである。
「ルート、ルート! 待ってえ」
気の抜けた声が大通りを歩いていく。聞き覚えのある声に視線を向けると、大学の同期のフェリシアーノだった。イタリアからの留学生だったか。彼の声はいつ聞いても炭酸の抜けたコーラみたいだ。だが、一見旨みも刺激もない甘ったるい声が俺は嫌いではない。頼りないと苛立つより、微笑ましいと感じる者のほうが多いだろう。
ひょこひょこと妙な歩き方をしていると思ったら、その矢先に小石に躓いて見事に転んだ。泣くか。耐えるか。レフェリーの気分で胸の内でカウントを数える。1・・・2・・・3まで数えたところで、彼は火がついたように泣きだした。
「うううええええっ、ルート、ルートぉ!」
「やかましい!」
地面に座り込んだまま泣きだしたフェリシアーノの姿を認めると、大股の早歩きでルートヴィッヒが近寄る。あの二人はとても気が合うとは思えないのになぜかいつもセットで見かけることが多い。今日も今日とて二人で買い物にでも来ていたのだろう。
ルートヴィッヒと言えば、そうでなくても大柄で強面なのに今は眉間にしわがより、とてつもない威圧感を醸し出している。だが、泣く子がもっと泣いてしまいそうなその形相の男に、フェリシアーノは飛びついた。
「靴紐とれちゃったよ〜。だってルート歩くの早いんだもん」
「・・・またか」
すんすんと洟をすするフェリシアーノの傍に屈んで、ルートヴィッヒは彼の靴紐を結んでやった。ルートヴィッヒも苦労が絶えないなと思う反面、靴紐が結べないのなら紐のない靴を履かせればいいのに、と意地悪く思う。ルートヴィッヒは顰め面を更に顰めて、フェリシアーノを叱りつけているが、本当に迷惑なら彼を捨ておけばいいのである。それをしないのは、ひとえにルートヴィッヒが彼を大事にしているからなのだろう。
大通りをはさんで向こう側で繰り広げられるそれを、俺はアイスコーヒーのストローを行儀悪く噛みながら眺めていた。アーサーが見たら行儀が悪いと窘めるだろう。俺はどこか幸福なのにもどかしいような、おかしな気分でストローを甘噛みした。
そうして俺は思いついた自身の考えに口角を上げた。
俺が先に注文していたアイスコーヒーがぬるくなる頃、アーサーはやってきた。
「お疲れ様」
「おう、遅くなって悪かったな」
ひらひらと手を振って彼に所在を示すと、アーサーは店内を突っ切って迷いなくテラスにいる俺の向かい側に座った。店員が持ってきたメニューを見ながら、彼はお前も何か飲むかと聞いた。俺は今度はアメリカンとサンドイッチを、彼は紅茶とスコーンを注文し、今度出版することになる絵本の話を聞いた。
彼は、自分の仕事に誇りを持っている。あくせく労働に汗するのが嫌いな英国人であるし、実を言えば彼自身働かずともカークランド家が所有するマンションや駐車場からの収入で食べていくには困らない。カークランド家はそこそこ裕福と言ってよかった。
だが、彼はあくせく働かない代わりに自宅で絵本を描く。もちろん彼自身絵本を描くのは嫌いではないのだろうが、その発端が俺であることも彼が筆をとり続けるゆえんなのではないかと思う。これは決して自惚れではないはずだ。何しろアーサーは、新しい絵本が刷り上がると必ず俺に一冊寄こすのだ。
その日は珍しくカフェで待ち合わせをしていた。
テラスに設けられたテーブルに座っていると、あたたかい陽の光が降ってきてとても気持ちがいい。汗をかいたアイスコーヒーのグラスをナプキンで拭って、ストローでかきまぜると溶けだした氷とコーヒーが混じりあう。少し薄くなったコーヒーの味も気にならないほど俺は浮かれていた。
普段と違うからだろうか。家ではなく外で会うのも久しぶりだったし、いつもは俺より早く来る彼を待つのはなんだか非日常的で俺をひどく楽しい気分にさせた。
今日は締め切り日だったので、アーサーは原稿を渡してから俺と合流する手はずだった。
俺の兄は、子供向けの絵本を手掛ける絵本作家だ。可愛い妖精やユニコーン、悪戯好きの精霊たちに、耳のとがったエルフや地中で生活するドワーフ。彼の紡ぎだす物語は、あたたかな色彩とあいまってとても幻想的だった。
英国人は妖精や幽霊の存在を信じる者が多いが、彼のまるで見てきたかのような筆致に、世間は彼を妖精が見える男と呼んだ。俺自身はSFやUFO、宇宙人、それから考古学に古代ロマンや遺跡などが好きだが、ファンタジーな妖精や何やらは信じていない。もちろんモンスターは怖いけれど(怖い映画を観た夜は決まって彼のベッドにもぐりこんだものだ)それでも頭ではフィクションとノンフィクションの区別はついている。ただ生理的に怖いだけでそこに存在しないと頭でちゃんと理解している。
だが、彼は本当に妖精の存在を信じている。俺の目には見えないから存在するとも存在しないとも明言できないが、ただ彼の描く絵本は好きだった。
何しろ彼の絵本は、そもそも俺のために描かれたものだからだ。俺の母親と彼の父親が再婚同士結婚して、数年で離婚して、俺たち血の繋がらない連れ子兄弟はそれぞれ英国と米国に別れて暮らすようになった。大人の都合など知らない幼い俺はアーサーに会いたいと泣いた。幼いながらに大変な頑固者だった俺は、母親からアーサーと連絡をとってもいいという許可が下りるまで泣き続けて、大地をも揺るがすような泣き声(これはのちに聞いた母の談)にさすがに辟易した彼女は俺に便箋と封筒を与えたのだった。
今まで一緒に暮らしてきた兄と引き離されたのだ。恋しくなって当然だ。俺は覚えたばかりの文字で切々と彼に想いを訴えた。
そして会うことができない代わりにといってアーサーが寄こしたのが絵手紙だった。彼の手紙には俺たちが昔飼っていたうさぎやインコの絵が描かれていて、その隣になんだかわからない動物が並んでいた。前々から彼は妖精の存在を主張していたし、こんなに可愛くていい奴らなのに見ることができないなんて、と俺をいっそ憐れんですらいた。だから、可愛い弟に自分の見るものを分け与えてやろうと思ったに違いない。
それらは俺にとっては馴染みのないものであったが、彼の描きだすそれらはやさしくて、彼の目に映る世界はなんて色彩鮮やかでやさしいのだろうと思ったものだった。俺は妖精を見ることはできないけれど、彼の目を通して見ることができる。その幸福に感謝すらしたのだった。
俺に絵手紙を送る一方、彼は大人、とりわけ実父への反感と不信から反抗期に突入したらしい。もっとも、彼のヤンキー時代はそう長くなかった。俺の実母の病死によって俺は再び義父のもとで養われることになり、彼とは数年で再会することができたからだ。
アーサーは大学在学中に友人の勧めで絵本を描き始め、彼の幻想的な作品は既に何冊も出版されて子供たちに愛されるところとなっているのである。
「ルート、ルート! 待ってえ」
気の抜けた声が大通りを歩いていく。聞き覚えのある声に視線を向けると、大学の同期のフェリシアーノだった。イタリアからの留学生だったか。彼の声はいつ聞いても炭酸の抜けたコーラみたいだ。だが、一見旨みも刺激もない甘ったるい声が俺は嫌いではない。頼りないと苛立つより、微笑ましいと感じる者のほうが多いだろう。
ひょこひょこと妙な歩き方をしていると思ったら、その矢先に小石に躓いて見事に転んだ。泣くか。耐えるか。レフェリーの気分で胸の内でカウントを数える。1・・・2・・・3まで数えたところで、彼は火がついたように泣きだした。
「うううええええっ、ルート、ルートぉ!」
「やかましい!」
地面に座り込んだまま泣きだしたフェリシアーノの姿を認めると、大股の早歩きでルートヴィッヒが近寄る。あの二人はとても気が合うとは思えないのになぜかいつもセットで見かけることが多い。今日も今日とて二人で買い物にでも来ていたのだろう。
ルートヴィッヒと言えば、そうでなくても大柄で強面なのに今は眉間にしわがより、とてつもない威圧感を醸し出している。だが、泣く子がもっと泣いてしまいそうなその形相の男に、フェリシアーノは飛びついた。
「靴紐とれちゃったよ〜。だってルート歩くの早いんだもん」
「・・・またか」
すんすんと洟をすするフェリシアーノの傍に屈んで、ルートヴィッヒは彼の靴紐を結んでやった。ルートヴィッヒも苦労が絶えないなと思う反面、靴紐が結べないのなら紐のない靴を履かせればいいのに、と意地悪く思う。ルートヴィッヒは顰め面を更に顰めて、フェリシアーノを叱りつけているが、本当に迷惑なら彼を捨ておけばいいのである。それをしないのは、ひとえにルートヴィッヒが彼を大事にしているからなのだろう。
大通りをはさんで向こう側で繰り広げられるそれを、俺はアイスコーヒーのストローを行儀悪く噛みながら眺めていた。アーサーが見たら行儀が悪いと窘めるだろう。俺はどこか幸福なのにもどかしいような、おかしな気分でストローを甘噛みした。
そうして俺は思いついた自身の考えに口角を上げた。
俺が先に注文していたアイスコーヒーがぬるくなる頃、アーサーはやってきた。
「お疲れ様」
「おう、遅くなって悪かったな」
ひらひらと手を振って彼に所在を示すと、アーサーは店内を突っ切って迷いなくテラスにいる俺の向かい側に座った。店員が持ってきたメニューを見ながら、彼はお前も何か飲むかと聞いた。俺は今度はアメリカンとサンドイッチを、彼は紅茶とスコーンを注文し、今度出版することになる絵本の話を聞いた。
彼は、自分の仕事に誇りを持っている。あくせく労働に汗するのが嫌いな英国人であるし、実を言えば彼自身働かずともカークランド家が所有するマンションや駐車場からの収入で食べていくには困らない。カークランド家はそこそこ裕福と言ってよかった。
だが、彼はあくせく働かない代わりに自宅で絵本を描く。もちろん彼自身絵本を描くのは嫌いではないのだろうが、その発端が俺であることも彼が筆をとり続けるゆえんなのではないかと思う。これは決して自惚れではないはずだ。何しろアーサーは、新しい絵本が刷り上がると必ず俺に一冊寄こすのだ。