靴紐
お前のために描いてやったのだ、などと口にこそしないものの、それはアーサーなりの俺へのアプローチなのだと思っている。遠く離れた弟へ贈る絵手紙は、今は形を変えて大人になった俺に絵本として贈られ続けている。小さな頃からの習慣は、今も変わらぬ俺への心意のあらわれなのだ。だから俺はもう絵本を喜ぶような歳ではないけれど、それを嬉しく思うし、彼の絵本は本棚の一番手に取りやすいところにしまってある。
「結んで」
会計に立とうとして突然立ち止まった俺に、当然のことながらアーサーはぶっとい眉毛を盛大に顰めた。それにしても立派な眉毛だ。
「はぁ?」
「いいから結んでよ」
右足をずいとつきだすと、なんで靴紐? とでも言いたげな表情を張り付けたまま、それでもアーサーは特に反論するでなく俺の前に回りこんだ。
上から見下ろす彼のうなじが見える。白くきれいなうなじだ。彼の姿に、俺はひとつ満足の息を漏らした。
彼が来るまでの間に、俺はこっそりスニーカーの靴紐をほどいておいた。さきほど見たフェリシアーノとルートヴィッヒの光景が頭をよぎったからだ。
単に、彼ならどうするだろうと疑問に思ったわけではない。彼を試そうとしたわけでもない。ただ、俺の靴紐も彼に結んでほしかった。
我ながらひどく子供じみている。だから兄にいまだに子ども扱いされるのだとはわかっているが、一度膨れ上がった欲求は彼に収めてもらわなければどうしようもない。少なくとも、俺はそうやって育ってきたのだ。
椅子に腰かけ、スニーカーを差し出す。彼は椅子の前に屈んで、俺の右足をとるとほどけた靴紐を結び直した。
ねえ、知ってるかい。アーサー。
俺だって君に甘えたいんだよ。
まるで王子様だとは言わないけれど。俺の足元に跪くアーサーの姿はたいそう様になっていた。ヒールが折れて困っているところにこんな風に気遣ってもらったら、きっとどんなレディも恋に落ちる。俺の兄にはそんな魅力があった。悔しいから絶対本人はおろかほかの誰にも教えたりはしないけれど。だってそうだろう? この先俺だけを見つめて愛していくのに、ほかの誰かが彼の魅力を知る必要はないのだから。
結び終わると、俺の脚をとりジーンズに包まれたふくらはぎに口づけた。
上目づかいに俺を見つめるその瞳は甘く、確かに愛されているという実感をくれる。
ここはなんでもないカフェのテラスで、俺はドレスどころかいつものTシャツにジーンズだが、そんなことは俺たちの醸す空気の前には何の問題にもならなかった。俺の脚をとる兄の手は恭しく、王子にガラスの靴を履かせてもらった時のシンデレラはこんな気分なのだろうかとすら思う。
もっとも俺は、女の子でもなければシンデレラストーリーにも興味がない。成功は自分の手で勝ち取るものだ。そうでなければ意味がない。それが金銭、社会的地位、名誉、どれであっても同じことだ。そう、手に入れたい対象が人間であっても。
「いっそハイヒールでも履かせてみるかい。君、そのままスクリーンにも出られそうなくらい気障ったらしいよ」
「買ってやろうか」
そう言ってアーサーはジーンズの裾から指先を忍ばせた。素肌をくすぐられてこそばゆい。なんてことない日中の戯れを、あっという間に夜のそれに変えてしまうこの人には心底呆れる。
だが、彼がそうするのが俺だけだということもわかっているから、俺はついつい優越感に浸り、彼を甘やかしてしまう。俺の悪い癖だ。「美しく聡明な」俺の唯一の瑕なのではないだろうか。ちなみに先述の「美しく聡明な」という形容は、俺ではなくアーサーの言だ。
いつだったかの週末、俺のアパートに来た彼はやはりいつも通りの彼で、前戯も本番もしつこかった。いい加減シャワーだって浴びたいし眠りたいのに、ベッドで彼は俺を抱きしめたまま延々詩的表現で俺の魅力を語りだすものだから、君が俺を愛してるのは知ってるからなるべく簡潔に済ませてほしいと半ば諦めるように言ったら、彼はそれからたっぷり一日かけて結論を出した。彼はこれ以上の譲歩は無理だと眉根を寄せて、「美しく聡明なアルフレッド」に赦しを乞うた。
「腐っても文学部卒業で絵本作家なんだからもっと気の利いたことは言えないのかい」
皮肉たっぷりに言うと彼は口元を歪めた。
「お前を的確に表現する形容詞が英語には存在しない」
苦悶の表情に、俺は笑ったのだった。
「いいね。どうせならピンヒールがいいな。きれいなやつがいい」
「そうだな。ブーツも捨てがたいが、やっぱりまずは華奢なパンプスかミュールだな」
「君、俺に女装させる気かい」
「どうだろうな」
そうして一ヶ月後、忘れた頃に宅配が届いた。
「愛しのアルフレッドへ」
パステルピンクやイエローで彩られた包みはひどく少女趣味だった。
贈り主の名は書いていない。贈り主が名前を書かないのは、あててごらんという英国流のプレゼントの作法だが、こんなふざけた包みを本気で寄こすのは、兄と知り合いのフランス人くらいしか心当たりがない。
しかも、おおよそ毎週末俺の部屋に通ってくるというのに、わざわざ送りつけるあたりがなんとも気どりやの彼らしいではないか。
流暢な筆記体で宛て名が書かれた包みを開けると、華奢なパンプスが箱に収められていた。本来女性もののはずのそれは妙に大きく、取り出して足を入れてみるとアルフレッドの足にきれいに沿った。おそらくこれは特注だろう。おおよそ成人男性のサイズの可憐なピンヒールに需要があるとは思えない。
外へ履いて出かけられるわけでもない女物を注文してまで送りつけて来るなんて、俺の兄はやはり最高にクレイジーだ。
携帯の着信履歴から彼の番号を呼び出す。
数コールののち、電波を通したいつもより少し鼻にかかった彼の声が届いた。